水仙 (小説)

太宰治の代表作の一つに数えられる短編小説『水仙』。その着想は、洋画家林倭衛の妻であった秋田富子からの手紙に端を発するといわれています。戦後の担当編集者である野原一夫氏は、『水仙』と『メリイクリスマス』という二つの作品について、秋田富子への「清潔な愛情が生んだ作品」であると評しており、作品に込められた深い感情がうかがえます。

小説は、著者が13、4歳の頃に読んだ菊池寛の『忠直卿行状記』への言及から始まります。この引用は、物語全体のテーマを予感させる導入部となっています。主人公「僕」と草田惣兵衛家は代々親しい間柄で、惣兵衛は東京帝国大学経済科卒業後、フランスに留学し、帰国後に親戚の娘である静子と結婚しています。パリを捩って「玻璃子」と名付けられた子供もいます。惣兵衛は銀行員として働いています。

物語の中心となるのは、静子とその周囲の人物たちです。4年前の師走、静子から突然正月への招待状が届きます。「あなたの小説の読者です」という文言が添えられていたことが、主人公と静子との関係性を象徴的に示しています。しかし、正月、草田家を訪れた主人公は、出された蜆汁を食べた際、静子から「そんなものを食べてなんともないのか？」と無心な問いかけを受け、言葉を失い、涙を流してしまいます。この出来事が、主人公と草田家との関係に影を落とすきっかけとなります。

その後、数年が経過し、昨年の9月、草田惣兵衛が主人公の家に現れます。惣兵衛は静子の消息を尋ね、静子の実家の破産と、そのことによる静子の精神的な変化を語ります。静子は破産を大きな恥と捉え、以前とは別人になってしまったのです。惣兵衛は静子を慰めようと、洋画の習い事をさせます。近所の60歳近い画伯のアトリエに通うことになった静子は、惣兵衛や画伯、そしてアトリエに通う若い研究者たちから絵を褒めちぎられ、結果的に「あたしは天才だ」と叫んで家出してしまいます。

物語は、11月のはじめ、庭の山茶花が咲き始めた頃、静子から届いた手紙でクライマックスを迎えます。手紙には、静子が耳が聞こえなくなったこと、大量の酒を飲んで中耳炎を患い、手遅れであることが綴られています。長い手紙にはアパートの住所も記されており、主人公は静子の住むアパートへと向かいます。

『水仙』は、一見すると静かな物語ですが、そこには静子の心の葛藤や、周囲の人間関係の複雑さが丁寧に描かれています。静子の破産、家出、そして聴覚を失うという悲劇的な展開は、読者に深い印象を与えます。また、主人公の静かだが、どこか諦観めいた視点も、物語に深みを与えています。全体として、静謐な表現の中に、人間の脆さと強さが同居する、太宰治らしい作品となっています。物語の結末は、静子の悲劇的な状況を示唆する一方、主人公の静かな決意のようなものを暗示しており、読後感に余韻を残します。

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