水天宮利生深川

『水天宮利生深川』（すいてんぐう めぐみの ふかがわ）は、通称『筆屋幸兵衞』（ふでや こうべえ）または『筆幸』（ふでこう）として知られる歌舞伎の演目です。明治18年（1885年）に千歳座で初演され、河竹黙阿弥によって作られました。三幕八場からなる世話物で、明治の世相を反映した「散切物」の代表作とされています。

物語は、士族の船津幸兵衛が、慣れない商売に失敗し、深川の貧しい裏長屋で暮らす場面から始まります。妻を亡くし、失明した長女と乳飲み子を抱え、筆を売ってなんとか生計を立てています。貧しいながらも人情に厚い隣人たちに助けられながら、日々を送る幸兵衛ですが、ある日、剣術師範代の萩原正作の内儀から金子と赤ん坊の服を授かります。さらに、娘のお雪も要次郎からお金を恵んでもらい、一時的に希望の光が見えます。

しかし、その束の間、高利貸しが現れ、金子と服を奪い去ってしまいます。一家は再び絶望の淵に突き落とされ、幸兵衛は清元の華やかな音楽が流れる中、一家心中を決意します。しかし、我が子の笑顔を見て死ぬことができず、絶望と悲しみから発狂し、踊り出します。その騒ぎを聞きつけた長屋の人々や萩原が必死に止めようとしますが、幸兵衛は我が子を抱いて裏の大川に身を投げます。

幸いにも、幸兵衛は車夫の三五郎や巡査の田見尾によって救出されます。飛び込んだ際の衝撃で正気を取り戻し、乳飲み子も無事でした。さらに、娘の孝行が新聞記事になり、多くの人々から義捐金が集まるようになります。また、娘の目を治す妙薬も見つかり、幸兵衛は水天宮の御利益に感謝し、皆から祝福されます。

この物語は、明治維新後の社会変動によって没落した士族の苦悩を描いています。新政府は旧武士階級の士族に俸禄米支給を打ち切る「秩禄処分」を行い、多くの士族が慣れない商売に手を出し、失敗しました。その結果、社会不安が高まり、征韓論や西南戦争、さらに自由民権運動へとつながっていきました。この作品は、そのような時代に取り残された人々を描き、明治初期の社会問題をうかがい知ることができる貴重な資料です。

原作では、幸兵衛の筋と盗賊小天狗要二郎の筋に分かれていますが、現代では幸兵衛の筋（原作の二幕目）のみが上演されることがほとんどです。この場面では、清元の『風狂川辺芽柳』に義太夫の掛け合いが効果的に用いられ、華やかな音楽がかえって幸兵衛の悲劇を際立たせています。黙阿弥の優れた作劇術が堪能できるでしょう。

初演が行われた千歳座は水天宮の近くにあり、外題名も「深川」と「めぐみ深い」をかけた洒落たものとなっています。また、立役が艱難辛苦し、乳飲み子を抱えて放浪するという従来の歌舞伎のモチーフを、新時代風にアレンジしている点も特徴です。特に幸兵衛が発狂する場面は、その狂乱の奥に深い悲しみが込められていると評され、劇全体のクライマックスとして評価されています。

初演時の主な配役は、幸兵衛・小天狗要次郎を五代目尾上菊五郎、三五郎・萩原正作を初代市川左團次、娘お雪を二代目尾上菊之助が務めました。

この作品は、散切物、落語の『素人鰻』、同じく黙阿弥の『霜夜鐘十字辻筮』、そして秩禄処分といったテーマとも深く関連しています。

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