江夏のオールスター9連続奪三振

1971年7月17日、兵庫県の西宮球場で行われたプロ野球オールスターゲーム第1戦で、阪神タイガースのエース、江夏豊投手が前人未踏の記録を打ち立てました。それは、パシフィック・リーグの強打者たちから奪った9者連続奪三振という、日本のプロ野球はおろか、メジャーリーグベースボールにおいても前例のない歴史的な快挙でした。

偉業達成の背景

この記録が生まれた1971年、江夏は決して万全の状態ではありませんでした。シーズン途中の5月には心臓に異常が見つかり（球団は本人に秘匿）、加えて不摂生な生活習慣や、前年に球界を揺るがした黒い霧事件への関与も報じられるなど、様々な問題を抱えていました。投球内容にも不満を感じており、7月に入ってからも「今年はコントロールが悪い」と語るなど、本来の調子からは遠い状態でした。オールスター前の成績も6勝9敗と負け越していましたが、ファン投票ではセ・リーグ投手部門で堂々の1位に選出されます。

そんな中、江夏は日刊スポーツ紙の取材に対し、冗談めかして「九人全部、三振にとったるワ」と前代未聞の記録達成を“予告”しました。しかし、この記事は新聞の片隅に一行載る程度で、本気に受け止められることはありませんでした。

第1戦の先発マウンドを任された江夏は、この年腎炎の影響で捕手としてはほとんど出場していなかった田淵幸一と、シーズン初のバッテリーを組みました。これもまた、万全とは言えない状況でのスタートでした。

伝説への道のり

試合が始まり、1回裏。江夏はパ・リーグの強力打線に立ち向かいました。

1. 有藤通世（ロッテ）: 2ストライク2ボールから空振り三振に仕留めました。有藤は「フォークでやられた。速い上にコントロールがいい」と江夏のピッチングを讃えましたが、江夏自身はカーブだったと語っています。
2. 基満男（西鉄）: こちらも2ストライク2ボールから空振り三振。基は「スピードは変わらないが、いいところを突いてくる」と江夏の巧みさを評しました。
3. 長池徳二（阪急）: 32試合連続安打中だった強打者。2ストライク1ボールから空振り三振に。江夏が「一番用心した」というこの打者に対し、投じたのは当時春に自身が開発した「スプリットフィンガー・ファストボール（SFF）」でした。長池は球のキレに驚愕しました。SFFは後の野球界で広まるよりはるか昔に江夏が投げていたのです。

2回裏に入っても、江夏の快進撃は止まりません。

4. 江藤愼一（ロッテ）: 2ストライク2ボールから空振り三振。江夏が中日時代に打ち込まれた経験から緊張したという打者ですが、ここでも圧倒。江藤はカーブで三振したと思いましたが、実際は速球でした。
5. 土井正博（近鉄）: 2ストライクから空振り三振。土井は「調子が悪いと聞いていたがとんでもない。あっという間にボール球を振らされた」と、江夏の速球と変化球に翻弄された様子を語りました。
6. 東田正義（西鉄）: 2ストライク2ボールから見逃し三振。東田は「恥ずかしい。打ち気を外され、タイミングをずらされた」と江夏の老練な投球術に舌を巻きました。

そして、3回裏。記録達成に王手をかけます。

7. 阪本敏三（阪急）: 2ストライク2ボールから見逃し三振。阪本は「バントも考えたが…ストレートばかりでやられた」とコメント。江夏は「落合より阪本タイプが苦手」と後年述べており、こういう小兵に大記録を阻まれることが多いという野球評論家の指摘もありました。
8. 岡村浩二（阪急）: 2ストライクから空振り三振。「速過ぎる、スピード違反や！」と岡村が叫んだというほど、江夏の速球が唸りました。
9. 加藤秀司（阪急）: 新記録達成がかかった9人目の打者。球場全体が異様な静けさに包まれる中、1ストライク1ボールからのファウルを捕手の田淵が追おうとしました。その時、江夏は「追うなっ！」と絶叫。後年、この時の心境を「一刻も早くこの緊迫から逃れたかった」と振り返っています。そして次の投球、江夏はゾーンど真ん中に渾身の速球を投げ込みました。加藤はフルスイングするも空振り。伝説の9連続奪三振がここに達成されたのです。

伝説の瞬間と余波

加藤が三振に倒れた瞬間、それまでの静寂が嘘のような大歓声が西宮球場を揺るがしました。江夏は両手を高々と掲げ、満面の笑みで声援に応えました。

この試合、江夏の後に続いた4人の投手もパ・リーグ打線を無安打に抑え、オールスターゲーム史上初のノーヒットノーランという記録も達成されました。

江夏の連続奪三振記録はこれで終わりませんでした。前年のオールスターから通算すると、既に5連続を記録しており、この9連続と合わせて合計14連続奪三振となっていました。さらに、同年後楽園球場で行われた第3戦に登板した江夏は、最初の打者である江藤愼一からも三振を奪い、記録を15まで伸ばします。

次に相対したのは、パ・リーグを代表する知将、野村克也（南海）でした。野村はバットを短く持って打席に立ち、これを見た江夏は思わずマウンド上で笑ってしまったといいます。野村は初球の真ん中への速球をうまくバットに当てて二塁ゴロに打ち取り、江夏の連続奪三振記録は15でストップしました。野村は後に、「パ・リーグの意地として、何としても連続記録を止めたかった」とその時の心境を語っています。

江夏の9連続奪三振は、コンディションに問題を抱えながらも、最高の舞台で自身の持つ力を最大限に発揮した天才投手の輝きを象徴する出来事として、日本のプロ野球史に燦然と輝いています。

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