渋沢紀美

渋沢 紀美

渋沢 紀美（しぶさわ のりよし）は、大正末期から昭和初期にかけて生きた人物である。日本の近代経済の礎を築いた稀代の実業家、渋沢栄一の曾孫にあたり、後に日本銀行総裁や大蔵大臣などを務めた子爵渋沢敬三（しぶさわ けいぞう）と、その妻である登喜子（ときこ）の次男として、大正15年/昭和2年（1927年）2月に東京府で生を受けた。

紀美という名は、父である敬三によって名付けられたものである。その由来は、曽祖父である渋沢栄一の父、渋沢市郎右衛門（しぶさわ いちろうえもん）が持っていた諱（いみな）、すなわち実名である「美雅（よしまさ）」から取られたと伝えられている。父敬三は、自身の父である篤二（とくじ）が廃嫡となった経緯もあり、祖父や曽祖父の存在を強く意識していたことが窺える。このような背景から、栄一の父の名の一部を子に付けるという行為は、渋沢家という血筋への深い思いや、家系の連続性に対する願いが込められていたのかもしれない。

しかし、紀美の生涯は極めて短いものとなった。生後わずか1年余り。昭和3年（1928年）4月9日、不幸にも当時流行していた流感に罹り、満1歳2か月でこの世を去った。当時の医療状況では、幼い命が感染症によって奪われることは珍しくなく、紀美もまたその犠牲となったのである。

紀美の夭折は、家族、特に母である登喜子にとって計り知れない悲しみとなった。紀美の兄にあたる、現在の渋沢家当主である渋沢雅英（しぶさわ まさひで）氏は、紀美が死去した時期がちょうど桜の美しい季節であったことを証言している。母登喜子は、晩年に至るまで桜の花が咲くのを見るたびに、「この子（紀美）のことを思い出す」と語っていたという。このエピソードは、短い命ではあったが、紀美という存在が家族の心にどれほど深く刻まれていたかを示している。美しい季節に失われた幼子の命と、それを見送った母の尽きない思いが、桜の記憶と結びついて語り継がれているのである。

紀美の短い生涯を通して、彼が繋がっていた渋沢家の主要な親族についても触れておく。

曽祖父・渋沢栄一（1840-1931）：日本の近代経済の父と呼ばれる。子爵。第一銀行頭取、東京市養育院長などを歴任。現在の東京都各地に居を構えた。
曽祖母・渋沢千代（1841-1882）：栄一の従妹であり、同郷の幼馴染。尾高惇忠（おだか じゅんちゅう）の妹。祖父篤二の実母。
祖父・渋沢篤二（1872-1932）：栄一と千代夫妻の長男。明治46年（1913年）、栄一の意思により廃嫡となり、長男である敬三が嫡孫と定められた。
祖母・橋本敦子（1880-1943）：伯爵橋本実梁（はしもと さねやな）の娘で、橋本実頴（はしもと さねあきら）の妹にあたる。夫篤二が廃嫡された後、敬三を含む三人の子供たちを連れて渋沢家の本宅を出て、本郷や高輪などを転々としながら苦労して子育てを行った。
父・渋沢敬三（1896-1963）：子爵。渋沢同族社長、澁澤倉庫取締役、第一銀行副頭取、日本銀行総裁、大蔵大臣などを歴任した。
兄・渋沢雅英：現在の渋沢家当主であり、公益財団法人渋沢栄一記念財団の相談役を務めている。紀美の夭折当時の家族の様子を伝えている。
* 妹たち：佐々木紀子、そして生物学者として知られる服部黎子がいる。

紀美の存在は、偉大な曽祖父や多忙な父、そして波乱の人生を送った祖父・祖母といった親族たちの系譜の中に、わずか1年余りの短い光芒として刻まれている。彼の短い生涯は、歴史の大きな流れの中では一瞬に過ぎないかもしれないが、家族の愛情と悲しみ、そして記憶の継承という側面から、渋沢家の歴史の一端を静かに物語っているのである。

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