渡辺勇次郎

渡辺 勇次郎（わたなべ ゆうじろう）

日本ボクシング界の揺籃期を支え、「ボクシングの父」と称される渡辺勇次郎は、1889年11月11日に現在の栃木県矢板市に生まれました。1956年6月28日にその生涯を閉じるまで、彼は単なる選手としてだけでなく、日本初の本格的なボクシングジムを創設し、ピストン堀口、笹崎僙といった歴史に名を刻む数多くの名ボクサーを育て上げた指導者・開拓者としての功績は計り知れません。その波乱に満ちた生涯は、異国の地での苦難と栄光、そして祖国での新たな挑戦に彩られています。

渡辺のボクシングとの出会いは、1906年、彼が旧制真岡中学校を中退し、語学を学び貿易商を志して単身アメリカ合衆国へ渡ったことに端を発します。サンフランシスコで働きながら生活を送っていたある日、ボクシングの心得がある白人との喧嘩に敗れた経験が、彼のその後の人生を大きく変えることになります。この屈辱的な出来事が、ボクシングへの強い興味と探求心を呼び起こしたのです。

本格的にボクシングを学びたいと願った渡辺は、現地のボクシングジムを探し始めましたが、当時のアメリカ、特に西海岸では日本人に対する強い排斥運動が展開されており、白人が経営するジムの扉は固く閉ざされていました。行く先々で差別的な対応を受け、入門を断られ続ける中、ようやく門戸を開いてくれたのが、アフリカ系アメリカ人のターナー師範が運営するジムでした。人種の壁を越え、このジムで渡辺はボクシングの基本から応用まで、文字通り体当たりで技術を習得していきます。持ち前の不屈の精神とガッツにより、彼の才能は驚異的なスピードで開花し、頭角を現すのに時間はかかりませんでした。

1908年、渡辺はカリフォルニア州でプロボクサーとしてリングに上がります。デビュー戦からメインイベントの4回戦に出場するという異例の扱いは、彼の才能と人気を物語っています。このデビュー戦を見事判定で勝利すると、その後一年半にわたって公式記録には残されていませんが16連勝無敗という破竹の勢いを見せつけました。当時のカリフォルニア州では安全上の理由から4回戦を超える試合が禁止されていたため、彼は「キング・オブ・フォアラウンド」というニックネームで呼ばれるほどの人気を獲得しました。

絶頂期にあった1910年1月、渡辺はカリフォルニア州ライト級王者ウィリー・ハッパーに挑みます。善戦したものの惜しくも判定で敗れ、キャリア初の黒星を喫しました。しかし、負けん気の強い渡辺は決して諦めず、同年7月には再びハッパーへの挑戦権を得ます。この再戦では、前回の敗北から多くを学び、戦略を練り直した渡辺が見事判定勝利を収め、異国の地でチャンピオンベルトを手にすることに成功しました。これは、当時の日本人としては極めて異例であり、快挙と言えるでしょう。

約15年に及ぶ米国での挑戦と成功の末、1921年に渡辺は日本へ帰国します。祖国の地で彼が最初に行ったことは、自身の経験を活かし、日本の若者にボクシングの道を切り開くことでした。同年、東京の目黒に設立された「日本拳闘倶楽部」、通称「日倶」は、日本で最初の本格的なボクシングジムとして歴史にその名を刻みます。ここから、近代日本ボクシングの歴史が本格的に幕を開けたと言っても過言ではありません。

ジム設立に続いて、渡辺は日本におけるボクシングの普及と発展のために精力的に活動します。1922年5月7日には、靖国神社境内の野外相撲場を会場に、プロボクシング興行「日米拳闘大試合」を主催しました。それまでボクシングの試合が見世物的な要素の強い興行でしか行われていなかった時代において、これは日本で初めて正式なプロボクシングマッチとして企画された興行でした。残念ながら、この興行は観客動員が振るわず、赤字に終わるという苦い経験となりましたが、日本におけるプロボクシングの可能性を示した重要な一歩でした。

また、渡辺は競技としてのボクシングの組織化にも貢献しました。1926年7月14日には、神田ブラジルで行われた「全日本アマチュア拳闘連盟」（現在のJABF日本ボクシング連盟の前身の一つ）の発足式に関わり、同時に「全國学生拳闘連盟」の会長に就任しています。さらに、日本体育協会の理事としてもボクシング界の地位向上に尽力しました。同年11月には、第1回全日本アマチュア拳闘選手権大会を開催するなど、アマチュアボクシングの基盤整備にも大きな役割を果たしました。1931年には、現在の日本プロボクシング協会の前身にあたる全日本プロフェッショナル拳闘協会の結成にも参加しており、プロ・アマ両面から日本ボクシング界の発展を牽引しました。

渡辺勇次郎は、アメリカでの厳しい差別に屈することなくプロボクサーとして成功を収め、その経験を基に帰国後、日本に初めて近代的なボクシングの仕組みを導入しました。日本拳闘倶楽部からは、ピストン堀口、笹崎僙、荻野貞行、岡本不二といった、戦前から戦後にかけて活躍した日本のボクシング史を彩る偉大な選手たちが巣立っていきました。彼が築いた礎の上に、今日の日本ボクシング界が存在すると言っても過言ではありません。その功績から、渡辺勇次郎は文字通り「日本におけるボクシングの父」として、その名を歴史に刻んでいます。

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