澤田喜子

澤田喜子（さわだよしこ）は、1918年（大正7年）に生まれ、2004年（平成16年）12月にその生涯を終えた女性です。

彼女の人生の大きな部分は、恩賜上野動物園での勤務期間にありました。1940年（昭和15年）から1982年（昭和57年）まで、実に40年以上にわたり同園の職員として働き、第二次世界大戦が開戦する前から終戦、そして高度経済成長期へと続く日本の激動の時代における動物園の移り変わり、そこで暮らす動物たち、そして人々の様子を間近で見つめ続けました。退職後、彼女はその豊富な見聞と経験を回想録としてまとめました。その記録は、彼女の没後である2010年（平成22年）に『平和を考えるわたしの見たかわいそうなゾウ』と題され、今人舎から単行本として出版されました。

幼少期と動物園

1918年、東京市下谷区上野花園町（現在の東京都台東区池之端）で、6人きょうだいの五番目の娘として生まれた澤田喜子。

彼女の生家は上野動物園の裏門に近く、幼い頃から朝夕に動物たちの鳴き声を耳にして育ちました。子どもの頃の遊び場は決まって上野の山で、動物園へも頻繁に足を運んでいました。動物園は彼女にとって親しみ深く、大好きな場所でしたが、まさか将来、そこで働くことになるとは想像もしなかったと語っています。

当時の上野動物園は、現在の広さに比べて園地が狭く、動物の種類や数も限られていました。緑豊かな木立の間に動物舎が点在するような様相でしたが、それでもゾウが3頭（ジョン、トンキー、ワンリー）飼育されており、園内で最も人気を集めていました。

動物園の近くに住んでいた澤田は、時折起きる動物の脱走といった出来事にも遭遇しています。小学校4、5年生の頃には、家にサルが侵入して夕食の魚を持ち去られたり、その約10年後にも自宅で脱走したサルと出くわしたりしました。また、1936年（昭和11年）7月25日早朝に発生したクロヒョウ脱走事件も間近で経験しており、その時の記憶を後に克明に書き記しています。

戦時下の動物園

臨時雇いを経て、1940年5月に上野動物園に正式に採用された澤田。最初の辞令は「管理助手見習」としての日給1円というものでした。当初の仕事は正門の売札・改札所の係でした。この他にも、来場者と直接触れ合える動物園案内所の仕事も手伝うことがあり、彼女にとって楽しい時間でした。

1941年（昭和16年）、事務所に長年勤めていた女性職員の退職を機に、「事務所へ来てみないか」と声がかかりました。飼育係を志望していた澤田は迷いましたが、「どちらでもいい」と答え、5月頃から庶務課で働くことになりました。庶務課では、刊行物や入場券の管理、売上金の計算、来客へのお茶出しなどを担当しました。当時の事務所は和やかな雰囲気で、隣には飼育事務所があり、動物好きの彼女にとって心の支えとなりました。

同年6月、管理助手に昇進し、待遇が改善されました。しかし、時代は戦争へと傾き、動物園にも影響が出始めます。職員の出征や、空襲に備えるための特設防護団結成、防空訓練などが日常となりました。女性職員たちは入園者の避難誘導や救護を担当する班を編成しました。開戦当初はまだ緊迫感が薄く入園者数に変化はありませんでしたが、人々の服装は地味になり、華美なものは見られなくなりました。

1942年（昭和17年）には戦況が悪化し、本土への空襲警報が頻繁に発令されるようになります。そして、翌1943年（昭和18年）8月16日には、東京都長官からゾウや猛獣類の殺処分命令が下達されました。

この頃、ゾウを担当していた飼育員の菅谷吉一郎が、ゾウ舎で澤田ら女性職員を集め、トンキーとワンリーとの記念写真を撮りました。澤田はゾウたちが疎開するのだと思っていましたが、これが2頭にとって最後の写真となりました。

戦況は悪化の一途をたどり、普段は冗談を言って職員たちを笑わせていた飼育員たちの口数も減り、笑顔が消えていきました。彼らが仕事終わりに配給の酒を飲む姿を澤田はよく見かけます。同年8月29日、「ゾウ舎の方で音がした」と聞き、オスゾウのジョンの死を直感しました。その後、9月末までにワンリーとトンキーも命を落としました。澤田は、衰弱したゾウたちのために飼育員たちが懸命に水を運ぶ姿を目撃しています。

動物の種類も数も減り寂しくなった園内でしたが、それでも人々は空襲警報の合間を縫って動物園を訪れていました。1944年（昭和19年）には戦況がさらに悪化し、職員も疎開などで減少し、残された人員で耐えるしかありませんでした。1945年（昭和20年）になると空襲が激化し、動物園も臨時閉鎖されるようになります。3月の東京大空襲では動物園周辺も被災し、澤田の生家がある町も危険に晒されました。祖母と共に防空壕に避難しましたが、動物園自体は被害を免れました。しかし、4月13日夜の空襲ではゾウ舎が炎上するなど、動物園も被害を受けました。

終戦、そして復興へ

1945年8月15日、戦争が終結しました。澤田が敗戦を実感したのは、マッカーサー元帥が厚木飛行場に到着した写真を見た時でした。9月に入ると、召集されていた古賀園長や職員たちが次々と動物園に戻ってきました。

度重なる空襲で荒廃した園内は、清掃や雑草・芋づるの刈り取りといった復旧作業が職員たちの仕事に加わりました。刈り取られたものは動物の飼料となりました。都内の中学生たちも清掃を手伝い、園内の整備は進んでいきましたが、動物の種類や数は少ないままでした。それでも、動物園は敗戦に打ちひしがれた人々の心を癒やす場としての役割を果たしました。

終戦直後、1日平均130人ほどだった入園者は、9月には570人、1946年（昭和21年）には無料入場の進駐軍兵士も加わり2300人以上へと激増しました。食料事情が厳しい中、動物園ではカボチャの種子や干し草などを入場券と交換する取り組みが始まり、多くの人がこれを利用しました。案内所に設けられた交換所は多忙を極め、売札係だった澤田も手伝いに加わりました。

動物たちの帰還と園の変化

戦後、動物類の補充は喫緊の課題でした。食料不足に加え、GHQの許可が必要な時期でした。1949年（昭和24年）、アメリカのソルトレークシティー市長から動物交換の申し入れがあり、ライオンやピューマなどが来園し、歓迎されました。しかし、戦前からの人気者だったゾウの不在は大きく、子どもたちからの「ゾウがほしい」という声が高まります。

これに応えたのがインドのネール首相でした。彼はゾウを平和の使節として贈ることを約束し、GHQの許可も得て輸送が決定しました。動物園では急ピッチでゾウ舎の建設が進められます。選ばれたのは15歳のメスゾウで、ネールの令嬢と同じ「インディラ」と名付けられました。

1949年9月25日未明、インディラが上野動物園に到着すると、多くの人々が押し寄せ、開園と同時にゾウ舎へ殺到しました。入園者は4万人を超え、澤田ら売札係は入場券の補充に追われました。インディラには2人の象使いが付き添い、日本の飼育員への調教指導も行いました。澤田も訓練を見学し、象使いとの交流を深めましたが、彼らの帰国が決まり、その別れを寂しく思いました。

インディラの約3週間前には、タイから2歳半のメスゾウ「はな子」が到着していました。かわいい子ゾウでしたが、急造のゾウ舎はインディラの体格に合わせていたため、柵の間隔が広く、動物園側は対応に追われました。はな子は後に井の頭自然文化園へ移動しました。

澤田が勤続12年を迎えた1952年（昭和27年）には、動物園70周年記念祭が盛大に開催されました。臨時会場が設けられ、インディラの曲芸やチンパンジー、アシカ、そしてライオンショーなど様々な催しが行われ、多くの人出で賑わいました。ライオンショーにはアメリカからトレーナーが来園し、後に日本の飼育員も加わりました。澤田は休憩時間にショーを観覧し、成功を祈りながら、出演者の緊張感に思いを馳せました。

1954年（昭和29年）から1959年（昭和34年）にかけて、不忍池分園にアフリカ生態園が建設されました。これにより分園への来園者が増加します。当時、分園にも売札所があり、もっとも外れにあった弁天門勤務は「隅に追いやられた」気分になったそうですが、冬の朝にはカルガモの家族が歩く姿を見かけるなど、自然との触れ合いもありました。1957年（昭和32年）にはモノレールが開通し、本園と分園を結ぶ交通手段となり、園は東園、西園と呼ばれるようになりました。

時代はさらに進み、1972年（昭和47年）には子ども動物園の移転やジャイアントパンダの来園・公開があり、動物園は変化を続けました。1974年（昭和49年）6月30日にはおサルの電車が廃止されます。入園者が増加したため、動物への負担を考慮した廃止に澤田も賛成しています。

仕事への思いと回想録

澤田は1982年（昭和57年）に上野動物園を退職しました。長年の勤務を通じて、動物園の仕事、特に飼育員たちの仕事に対する真摯な姿勢やプライドを肌で感じていました。体力的に厳しく、生き物を相手にする責任の重い飼育員の仕事の大変さを知り、事務所勤務となった後も、彼らに対する敬意を抱き続けました。事務所の女性職員が結婚以外で退職していく状況に疑問を感じながらも、戦後の混乱期を乗り越えるためにも働き続けました。

新しい若い職員の中で孤立を感じることもありましたが、飼育員たちの温かい気づかいに救われたと言います。憂鬱そうな顔をしていると、綺麗な鳥の羽根をくれたり、小鳥の巣の場所を教えてくれたりしたのです。「飼育係の人々はみんな個性があって素朴で、そんなところがわたしにとっては何となく魅力に感じられたのです。わたしが動物園をやめられない理由は、こんなところにあったのかもしれません」と澤田は回想しています。

退職後、澤田は上野動物園での豊富な見聞と経験を回想録として書き起こしました。しかし、生前は公にせず、「死んだら原稿も一緒に棺に入れて焼いてほしい」とまで言っていたと言います。

その原稿の存在を知ったのは、澤田の告別式に参列した小宮輝之（後の上野動物園園長）でした。小宮の働きかけにより原稿は焼失を免れ、2005年（平成17年）に上野動物園で開催された戦後60年企画展で一部が公開されました。そして、フリーアナウンサーの村松真貴子の強い思いと尽力により、事実関係の確認・修正を経て、2010年（平成22年）に『平和を考えるわたしの見たかわいそうなゾウ』として単行本化されました。

村松は企画展での朗読に感銘を受け、「辛い歴史を知ることで平和への意識が深まる」と考え、単行本化を熱望しました。本書は澤田の幼少期から始まり、戦前から戦中、戦後の復興、そして仕事へのプライドについて語られています。2024年（令和6年）には、本書の一部がアンソロジー『作家とけもの』に収録され、「絵本には書かれなかった」飼育員たちの苦悩を描いた記述などが評価されています。

澤田喜子の回想録は、一人の動物園職員の目を通して、戦争という時代の狂気の中で動物たちが辿った悲劇、そしてそこからの復興の道のりをリアルに伝える貴重な証言として、今なお多くの人々に読まれ続けています。

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