無癩県運動

無癩県運動とは

無癩県運動は、1930年代から1960年代にかけて日本各地で展開された、ハンセン病患者を療養所に強制的に隔離収容することで、県内から患者を一掃しようとした社会運動です。この運動は、医師の光田健輔や各都道府県が主導し、官民一体となって推進されました。患者の強制収容だけでなく、一般市民による監視制度も設けられ、隠れて暮らす患者を市民が発見した場合、警察などに通報することを奨励する、人権を著しく侵害するものでした。

2001年の熊本地方裁判所判決では、この運動が「今日まで続くハンセン病患者に対する差別・偏見の原点」であると指摘されており、その負の遺産は非常に大きいと言えるでしょう。

運動の概要

運動の発端には諸説ありますが、1929年に愛知県の方面委員がハンセン病療養所を視察後、県内から患者を一掃しようとした民間運動が最初であるという説が有力です。この動きは岡山県や山口県などへ拡大していきました。

当初の運動は、1931年の癩予防法制定後に本格化し、光田健輔が提唱した十坪住宅運動とともに、政府や各県が推進しました。運動の高まりとともに、公共団体や学校、宗教団体なども協力するようになりました。しかし、1936年頃から運動は変質し、「国辱論」や皇室中心のパターナリズムと結びつき、国家主義的な色彩を強めていきました。

戦前と戦後の運動

戦前の無癩県運動は、1941年に太平洋戦争が始まるまで徹底的に実施されました。内務省は各自治体に患者の強制収容を競わせ、収容者一人につき報奨金を出すことで、患者の隔離を推し進めました。

第二次世界大戦後も運動は継続され、1947年には所管が厚生省衛生部予防課に移り、戦前の警察主体の摘発から、保健所が主体となる監視体制へと変化しました。戦後の運動は、民主的な憲法下で行われたにもかかわらず、強制隔離はより徹底され、国内のハンセン病患者のほぼ全てが療養所に収容されることとなりました。

運動の経過

第一次無癩県運動

1931年に癩予防協会が発足し、全国的な無癩県運動が推進されました。貞明皇后の誕生日である6月25日を中心とした癩予防デーが設定され、ポスターやパンフレット配布、映画上映などを通して、国民にハンセン病の知識を広め、患者の療養所への入所を促しました。しかし、強制収容の増加により療養所の環境は悪化し、1936年には長島愛生園で暴動が起こるなど、社会問題化していきました。

「小島の春」現象

1938年に出版されたハンセン病医小川正子の著書『小島の春』は、映画化もされ大ヒットしました。この作品は、ハンセン病患者の悲惨な状況を美化し、無癩県運動をさらに加速させることになりました。この現象は「小島の春現象」と呼ばれ、多くの人々の心を捉え、運動を後押ししました。

本妙寺事件

1940年には、熊本市の本妙寺周辺に住むハンセン病患者集落が警察や療養所職員によって襲撃され、患者157人が検挙されました（本妙寺事件）。この事件は、患者の自治組織を解体し、療養所への収容をさらに進めるものでした。この事件は、単なる患者の排除だけでなく、その背後にある複雑な事情が絡み合っていたと考えられています。

第二次無癩県運動

1947年に内務省が廃止され、ハンセン病行政は厚生省に移管されました。厚生省は各都道府県に対し、未収容患者を優先的に収容するように指示し、一斉検診の復活や患者名簿の作成、患者の収容を徹底しました。各都道府県は保健所に、疑わしい患者を調査し報告するように指示し、強制的な隔離政策が展開されました。

悲劇的な事件

1951年には、山梨県で長男がハンセン病と判明したため、村八分を恐れた家族が一家心中するという悲劇的な事件が起こりました。その他にも、ハンセン病患者であることを理由とした悲劇的な事件が多発しました。1958年には療養所の収容人数がピークに達し、その後、徐々に減少していきました。

併合した土地での無癩県運動

日本が併合した地域でも同様の隔離政策が行われ、特に台湾では無癩報告運動や無癩州運動が推進されました。しかし、台湾での収容者数は、他の地域と比較して少なく、取り締まりが緩かったと考えられています。

沖縄県における類似運動

沖縄県では、アジア太平洋戦争末期に、軍部の命令でハンセン病患者の強制収容が行われました。これは、患者が沖縄防衛に害を及ぼすという理由から実施されたものでした。

無癩県運動の終焉

各県での患者収容数は徐々に減少し、ハンセン病に対する薬物療法が確立したことで、無癩県運動は終焉を迎えました。

無癩県運動に関係した人々や団体

運動には、多くの人々や団体が関わりました。都道府県の衛生部やらい予防協会、済生会、結核予防協会、宗教団体、学校などが協力しました。方面委員や愛国婦人会も募金活動を行いました。

医師

多くの医師が講演や啓発活動を行い、運動を推進しました。山口県では光田健輔をはじめとする医師たちが、鳥取県では光田健輔や林文雄などが活動しました。

新聞社

新聞社も無癩県運動を報道し、運動を宣伝しました。中には、府県同士の対抗戦として報道する新聞社もありました。

無癩県運動の影響

無癩県運動は、患者や家族、親族に大きな影響を与えました。日常生活、教育、就職、結婚など、あらゆる面で差別や偏見を受け、社会からの孤立を余儀なくされました。スティグマによる精神的な苦痛も大きかったと言えます。

謝罪声明

2001年の熊本地裁判決を受け、各都道府県知事が国立ハンセン病療養所を訪問し、入所者に謝罪を行いました。この謝罪は、無癩県運動によって受けた人権侵害に対して、ようやく公式に認められた形となりました。

まとめ

無癩県運動は、ハンセン病に対する誤った知識や差別、偏見に基づいて行われた人権侵害行為でした。この運動は、多くの患者やその家族に深い傷跡を残し、今日まで続く差別や偏見の根源となりました。この過ちを繰り返さないためにも、私たちは歴史から学び、ハンセン病問題に対する理解を深め、差別や偏見のない社会の実現を目指していく必要があります。

もう一度検索