登戸浦

葛飾北斎が描いた名作『冨嶽三十六景』の中の1枚、「登戸浦」は、かつて千葉県に存在した入江の風景を鮮やかに描いた作品です。落款には「前北斎為一筆」とあり、北斎自身の筆によるものとされています。

絵画には、大小さまざまな鳥居が複数描かれ、それらの間に人々が行き交う様子が活き活きと表現されています。浅瀬では家族連れが潮干狩りを楽しみ、漁師たちは仕事に励む姿が描かれ、当時の沿岸地域の活気ある日常が見て取れます。

この絵に描かれた鳥居は、通説では登渡神社のものとされてきましたが、海中に鳥居があったという記録は確認されていません。そのため、稲毛区にあったとされる稲毛浅間神社の鳥居ではないかという説も提示されています。海中に鳥居を構えるという、当時としては珍しい光景が描かれている点も、この絵の謎めいた魅力の一つと言えるでしょう。

北斎は庶民が浅瀬で潮干狩りを楽しむという題材を好んで作品に取り上げており、「登戸浦」もその好例と言えるでしょう。同種の題材を用いた作品には、『千絵の海』の「下総登戸」や、北斎の作品として初めて重要文化財に指定された肉筆浮世絵『潮干狩図』などがあります。これらの作品を通じて、北斎が当時の庶民の生活や自然との関わりに深い関心を抱いていたことが窺えます。

文化3年（1806年）6月ごろ、北斎は木更津市近辺を訪れた記録が残されています。この旅行の際に、北斎は「登戸浦」の絵の構想を得たのではないかと推測されています。実際に、北斎が旅先で目にした潮干狩りの光景や、入江の風景、そして特徴的な鳥居などが、絵画の中に息づいていると考えられます。

「登戸浦」は、単なる風景画ではなく、当時の社会情景や人々の暮らし、そして北斎自身の旅の経験が凝縮された作品と言えるでしょう。絵画に込められた北斎の繊細な観察眼と、卓越した表現力によって、私たちは当時の千葉の入江の活気に満ちた情景を、今なお感じ取ることができるのです。

近年における研究では、この作品に描かれた鳥居の位置や、絵画に込められた象徴性について、様々な議論が交わされています。北斎の絵画は、単に風景を描くだけでなく、当時の社会や文化に対する深い洞察が反映されているため、歴史的・文化的にも貴重な資料となっています。今後さらなる研究によって、「登戸浦」に秘められた謎が解き明かされることが期待されます。

参考文献

日野原健司『富嶽三十六景』岩波書店、2019年
磯崎康彦「北斎の風景・風俗版画」『福島大学人間発達文化学類論集』34巻、福島大学人間発達文化学類、2021年
* 『版画芸術』203巻、阿部出版、2024年

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