礫川雪ノ且

葛飾北斎『冨嶽三十六景』より「礫川雪ノ且」：雪景色の江戸と富士山

葛飾北斎晩年の代表作として名高い『冨嶽三十六景』。その46図の中に、「礫川雪ノ且」（こいしかわゆきのあした）という作品があります。落款には「前北斎為一筆」と記されています。

この作品は、東京都文京区の小石川下流地域を背景に、雪景色の中で富士山を眺める人々の様子を描いています。画面には、雪化粧された街並みに、夜明けの澄んだ空気の中でそびえる富士山が描かれ、欄干から身を乗り出して富士山を指さす女性の姿が印象的です。『冨嶽三十六景』において、雪景色を描いた唯一の作品であることも特筆すべき点です。「雪ノ且」は「雪ノ旦」の誤刻であるとする説もあります。

絵の舞台：礫川とは？

「礫川」は、小石川台と小日向台の間を流れる小石川川の下流域を指すと考えられています。しかし、具体的な描かれた場所は諸説あります。

一説には、伝通院の前にある坂の上からの景色とする説があります。また、別の説では、斎藤月岑の『江戸名所図会』に描かれた牛天神北野神社周辺の風景がモデルではないかとされています。この説が正しい場合、絵の中に流れる川は小石川ではなく江戸川となります。これらの説はいずれも、小高い丘の上から見渡す、見晴らしの良い場所を想定しています。

多様な表現：版画のバリエーション

「礫川雪ノ且」は、版画の刷りによって、空の色や、細部描写に変化が見られることが知られています。

例えば、メトロポリタン美術館などにある初摺りの作品では、空一面に藍色が使われています。しかし、後摺りの作品では、空の表現が天ぼかしとぼかし上げのみになり、藍色が使われなくなっているものもあります。また、朝焼けまたは夕焼けを表現するために、空に薄紅色が使われた作品も存在します。さらに、空を飛ぶ鳥の数も、初摺りでは三羽描かれているのに対し、後摺りでは省略されている場合も見られます。

これらのバリエーションは、版木や摺り方の変化、あるいは北斎自身の意図的な変更によるものと考えられますが、その詳細は明らかになっていません。

作品に込められたもの

「礫川雪ノ且」は、単なる風景画ではなく、江戸の町民の日常の平和な賑わい、そして雄大な自然との調和を描いた作品と解釈できます。雪景色の中で富士山を眺める人々の姿は、静謐な冬の情景の中に、さりげない日常の温かさを感じさせます。

富士山は、江戸時代の庶民にとって特別な存在であり、畏敬の念とともに親しまれていました。この作品は、そんな富士山を日常の風景に溶け込ませることで、江戸の人々の生活と自然の繋がりを繊細に表現していると言えるでしょう。また、複数のバリエーションが存在することは、北斎の表現技法の深さ、そして作品に対する柔軟な姿勢を示すものと言えるでしょう。

参考文献

日野原健司『富嶽三十六景』岩波書店、2019年
磯崎康彦「北斎の風景・風俗版画」『福島大学人間発達文化学類論集』34巻、福島大学人間発達文化学類、2021年
* 『版画芸術』203巻、阿部出版、2024年

もう一度検索