神奈川金属バット両親殺害事件

この事件は、1980年（昭和55年）11月29日未明、神奈川県川崎市高津区で発生した痛ましい事件である。当時20歳で大学受験に失敗し、二浪中であった予備校生が、実の両親を金属バットで撲殺した。高学歴の父母を、激しい暴力によって殺害したという衝撃的な事実は、多くの人々に強い印象を与えた。「教育虐待」という言葉が一般的ではなかった当時、この事件は熾烈な受験競争がもたらす悲劇の象徴として、社会の耳目を集め、様々なメディアで取り上げられることとなった。

事件の背景

犯人となった予備校生は、父親の社宅があった東京都で生まれた。両親は山口県出身である。都内の小学校、中学校を経て、都内の名門私立高校へ進学した。高校在学中の16歳の頃、一家は神奈川県に転居している。彼は野球が得意で、母親からは「手間のかからない子供」と評されていたという。

父親は東京大学経済学部を卒業し、旭硝子（現AGC）の東京支店で建材担当の支店長を務めるエリートであった。厳格な人柄であった一方で、歌を好む一面もあったとされている。また、兄も事件の前年に早稲田大学を卒業し、上場企業に就職しており、家庭内には高い学歴への期待や重圧が存在していたことが窺える。

しかし、予備校生は高校入学以降、成績が徐々に低迷し始めた。早稲田大学などを受験したが不合格となり、予備校に通うことになったが、ここでも成績は伸び悩んだ。浪人1年目の大学受験も再び失敗。父親からは大学受験を諦めるよう勧められたが、本人は諦めきれず、懇願の末、二度目の浪人を許された。だが、精神的な重圧は増す一方で、父親のキャッシュカードを無断で利用して浪費したり、飲酒に溺れるといった問題行動が見られるようになった。

事件当日の経緯

事件発生の直前、両親の結婚25周年を祝う「銀婚式」を翌日に控えた夜、彼の問題行動（キャッシュカードの無断使用）が両親に露見する。父親は激怒し、「バカ、一人前に大学にも入れないくせにこのざまは何事か。お前のような泥棒を家に置いておくわけにはいかない。お前はクズだ、出て行け！」と激しく罵倒し、足蹴にしたという。それまで息子の味方であったとされる母親も、この時は「あなたは本当にダメな子だ」と突き放すような冷たい言葉を浴びせた。父親から「明日中に追い出してやる」と告げられ、自宅にさえ自分の居場所がないと感じた彼は、極度の絶望感を抱いたとされる。

両親から叱責を受けた約3時間後、翌朝未明、彼は大量に飲酒した後、自室から持ち出した金属バットで就寝中の両親を次々と殴りつけ、殺害した。

犯行後の逮捕と裁判

犯行後、彼は強盗の犯行に見せかけようと、凶器の金属バットや血痕の付いた衣服を隠すなどの偽装工作を行った。その後、夜が明けるのを待って警察に通報し、強盗による犯行だと偽証した。しかし、事件の翌日、駆けつけた親類からの追及によって犯行を認め、親類によって警察に通報され逮捕された。逮捕後は一転して犯行を素直に認め、詳細な経緯を自ら供述した。

裁判では、父親の大学時代の同期生であり親友であった弁護士が私選弁護人を務めた。1984年（昭和59年）4月25日、第一審の横浜地方裁判所川崎支部は、検察側の求刑18年に対し、懲役13年の判決を言い渡した。判決理由では、両親からの叱責が犯行の直接的な引き金となった点は認めつつも、それは基本的に被告人自身の問題であり、両親に落ち度があるとは断定できないとした。しかし、前科や非行歴がないこと、精神鑑定の結果から発達障害の傾向が認められること、飲酒により事理弁識能力が「著しく」ではないが「相当」減弱した中での偶発的な犯行であること、逮捕後の素直な自供と真摯な反省、更生の可能性などを考慮し、量刑が判断された。被告人はこの判決を不服とせず、控訴しなかったため有罪が確定した。彼は千葉刑務所に服役し、1994年に刑期満了で出所した。服役中のエピソードとしては、元獄中仲間であった人物の著作で、いじめを受けていたという記述がある一方、看守たちの心証は比較的良かったとも記されている。

事件を巡る論争と社会的影響

この事件の動機については、裁判の内外で様々な議論がなされた。代表的な説としては、過度な受験競争や、成功した父親や兄に対する学歴コンプレックス、あるいは家庭内でのコミュニケーション不足が募った結果であるという見方がある。これは予備校関係者などによって支持された。

一方で、全く異なる深刻な問題が背景にあるという説も唱えられた。ジャーナリストの田原総一朗氏やルポライターの溝口敦氏は、エディプスコンプレックスや母子相姦といった家庭内の隠された問題が事件に絡んでいる可能性を指摘したが、これらの説は「辻褄合わせ」あるいは「嘘」であるとして、他の識者から強い批判も浴びた。

いずれにせよ、この事件は当時の日本の家庭や教育が抱える問題を浮き彫りにし、多くの人々に衝撃と問いをもたらした。その社会的影響の大きさから、事件はBOØWYの楽曲「WATCH YOUR BOY」のモチーフとなるなど音楽作品に取り上げられたほか、テレビドラマ『金属バット殺人事件』、ノンフィクション『金属バット殺人事件戦後ニッポンを読む』、再現フィルムを用いたテレビ番組、戯曲『子供の領分』、藤原新也の写真集『東京漂流』など、様々なジャンルの作品で題材とされた。この事件は、現代社会における家庭内暴力、機能不全家族、教育虐待といった問題が語られる際に、しばしば引き合いに出される悲劇的な事例として記憶されている。

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