稲瀬川 (神奈川県)

稲瀬川・美奈能瀬川：鎌倉を彩る二つの流れ

稲瀬川（いなせがわ）と美奈能瀬川（みなのせがわ）は、神奈川県鎌倉市の長谷地区を流れ、由比ヶ浜海岸で相模湾に注ぐ二つの川です。古くは『万葉集』にもその名が登場し、鎌倉の歴史と深く関わってきました。本稿では、これらの川の地理的な特徴、歴史的な変遷、そして文学・演劇における描かれ方について詳しく解説します。

地理

現在の長谷地区、由比ヶ浜の海岸には、約20メートルの間隔を置いて二つの川が海に注いでいます。鎌倉市発行の行政地図では、西側を流れる川が稲瀬川、東側を流れる川が美奈能瀬川とされています。20世紀半ばまでは、両者は河口付近で合流し、一本の川として海に注いでいました。

鎌倉市は条例で「普通河川」を定めていますが、稲瀬川・美奈能瀬川ともに普通河川には指定されておらず、河川管理上は「水路」として扱われています。

稲瀬川

稲瀬川は、長谷大谷戸（はせおおやと）に源流を持ち、高徳院（鎌倉大仏）の東から長谷観音前交差点付近へと南下します。長谷観音前交差点以北は多くが暗渠となっています。開渠が始まる交差点南側には、1926年（大正15年）に架けられた橋の親柱が残されています。江戸時代後期の地誌『新編相模国風土記稿』には、長谷観音門前で稲瀬川を渡る江島道の石橋として「兵橋（兵ヶ橋）」の名が記されています。

長谷観音前交差点から南下した流れは、江ノ電長谷駅の北でほぼ直角に曲がって東に向きを変え、住宅街の中で再び南方向へと流路を変えて海岸へと向かいます。海岸沿いの国道134号をくぐり、由比ヶ浜の海に注ぎます。

稲瀬川には、上流から新宿橋、栄橋、三橋、美奈能瀬橋（国道134号）などの橋が架かっています。関東大震災の際には、長谷駅前にあったとされる「兵橋」まで津波が遡上したという記録が残されています。

美奈能瀬川

美奈能瀬川が開渠となっているのは河口部のみですが、源流は笹目ヶ谷（笹目町）にあり、大部分が暗渠となっています。笹目ヶ谷から流れ出た川は南西に向きを変え、吉屋信子記念館前の道路の下を流れます。その後、鎌倉文学館前の道に突き当たって南へ、さらに西へと流れを変え、甘縄神明神社参道の東の道で再び南に流路を変えて海へと向かいます。

一部の辞書では、笹目ヶ谷に源流を持つ川を「稲瀬川」と解説しています。また、遺跡発掘調査報告書に付された地図に、この川を「笹目川」と記すものもあります。

呼称と同定

稲瀬川（美奈能瀬川・水無瀬川）は、由緒ある川であるために、江戸時代の地誌類以降さまざまな考証が行われ、現地でも呼称と同定に混乱が生じているとされています。例えば、「稲瀬川」には「美奈能瀬橋」が架かり、「稲瀬川」の碑は「美奈能瀬川」河畔にあります。

歴史

『万葉集』には、「美奈能瀬河泊（みなのせかは）」を詠む歌が収録されています。『新編相模国風土記稿』は、万葉集に登場する「美奈能瀬川」および以後の和歌で歌枕として使われた「水無瀬川」を稲瀬川と同一とし、「水無瀬川」が本来の名前で、「稲瀬川」はその転訛であると考証しています。

『吾妻鏡』には、源頼朝の妻である北条政子が鎌倉に移住する際、数日間この川辺の民家に逗留したという記述があります。また、源頼朝が平家追討使として出陣する源範頼の軍勢を稲瀬川のほとりに桟敷を設けて見送ったこと、源義朝および従者鎌田政清の首（遺骨）が探し出され、頼朝に引き渡された際に出迎えた場所が稲瀬川であったことが記されています。鎌倉時代前期、稲瀬川は鎌倉の西の境界として認識されていたと考えられています。

承久の乱や鎌倉の戦いなど、歴史的な出来事の舞台ともなりました。

文学・演劇における稲瀬川

歌枕「水無瀬川」

『万葉集』に登場する「美奈能瀬河泊」は、川を渡って女のもとに通う男が、川に潮が満ちて遮られてしまうだろうかと歌ったものです。以後の和歌においては「水無瀬川」として詠われることとなりました。

歌舞伎の「稲瀬川」

江戸時代の歌舞伎作品では、隅田川（大川）を置き換える舞台として稲瀬川がしばしば登場し、実際とは異なる大きな川として描写されました。

二代目河竹新七（黙阿弥）の作品『青砥稿花紅彩画（白浪五人男）』では、稲瀬川の土手に勢揃いした五人男が見得を切る場面が描かれています。しかし、舞台背景には対岸に浅草の待乳山聖天が描かれており、明らかに隅田川と分かるようになっています。

稲瀬川は、鎌倉の歴史と文化を語る上で欠かせない存在であり、その流れは今も静かに由比ヶ浜へと注いでいます。

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