竜王と賢女ワシリーサ

『竜王と賢女ワシリーサ』（露: Морской царь и Василиса Премудрая、英: The Sea king and Vasilisa the Wise）は、ロシアに伝わる民話の一つです。国際的な民話の分類であるAT番号では313にあたります。この物語は、アレクサンドル・アファナーシェフが編纂した『ロシア民話集』に、類似の物語を含めて8編（219番から226番）が収録されています。

物語の始まりは、ある王が狩りの最中に助けた鷲への約束から始まります。王は鷲を3年間大切に育てた後、解放することにしました。鷲は感謝のしるしとして王を家族の元へ連れて行き、2つの不思議な小箱と帰りの船を与えます。帰国の途上、ある島に立ち寄った王は、鷲との約束を破り、小箱の一つを開けてしまいます。すると、中から夥しい数の家畜が飛び出してきました。その時、海中から現れた不思議な男（後に竜王と呼ばれる）が、「王の家にある物で、王がまだ知らないもの」を譲り受けることを条件に、家畜を再び小箱に納めてくれます。帰国した王は、留守中に待望の王子が誕生していたことを知り、自分が竜王に差し出すべきは王子だと悟り、深く悲しみます。しかし、もう一つの小箱からは豊かな庭園が出現し、この喜びのために王は竜王との約束を次第に忘れていきました。時が流れ、成長した王子の前に竜王が現れ、約束の履行を求めます。王は息子たちに経緯を話し、王子は運命を受け入れて海辺へと向かいます。

旅に出た王子は、途中で出会ったヤガーばあさんから助言を得ます。その一つに従い、王子は12羽の鷺が姿を変えた乙女たちの中から、ワシリーサと呼ばれる一人の衣類を隠します。衣類を失い鷺に戻れなくなったワシリーサは、王子に衣類を返すよう懇願し、「父である竜王の元で、きっとあなたのお役に立ちます」と約束します。王子はこれを聞き入れ、衣類を返却します。さらに王子は、ヤガーばあさんの別の助言に従い、旅の途中で出会った非凡な能力を持つ「食いしん坊」「大酒のみ」「寒の太郎」という3人の不思議な人物を供に加えました。竜王の豪華な海底宮殿に到着した王子に、竜王は次々と難題を課します。初日には水晶の橋、二日目には美しい庭園を一晩のうちに造れという無理な要求です。しかし、ワシリーサがその魔力を用いて一夜のうちに全てを完成させ、王子を救います。竜王は王子の成功を認め、褒美として12人の娘の中から一人を妻に与えると言いますが、今度はそっくりな娘たちの中から同じ娘を3度言い当てるという難題を出します。失敗すれば死刑です。この条件を知ったワシリーサは、自分を見分ける方法を王子に密かに教え、王子はワシリーサを正確に選び出し、妻とすることができました。

結婚を祝う宴席や入浴の際にも、竜王は王子にさらなる難題を仕掛けますが、王子は旅の供である「食いしん坊」「大酒のみ」「寒の太郎」たちの特殊な力によって救われます。やがてワシリーサは王子と共に父のもとから逃亡を図ります。竜王は追っ手を差し向けますが、ワシリーサはその魔力を用いて追っ手を退けます。そして、自ら追ってきた竜王の前には甘い蜜の川を用意しました。竜王はその蜜を全て飲み干そうとしましたが、腹が破裂して死んでしまいます。ワシリーサは、自分のことを王子の家族に話してもらうため、王子を一足先に故郷へ帰らせます。ところが、宮殿に帰還した王子は、ワシリーサとの約束を忘れ、妹に挨拶のキスをした拍子に、ワシリーサに関する記憶を失ってしまいます。

ワシリーサは王子の帰りを3日間待ちましたが、4日目に自ら都へ向かいます。そこで、王子と他国の王女との婚礼が間近であり、国民は祝いのパイ（ピローグ）を献上せよという御触れが出ていることを知ります。ワシリーサは自らもパイを作り、婚礼の祝いの席に持参しました。彼女が作ったパイが切り分けられると、中から彼女が仕込んでおいた二羽の鳩が現れます。雄鳩が雌鳩に「おまえがくわえているチーズをくれ」と言うと、雌鳩は「いやです。あげたら、ワシリーサを忘れたように、私のことも忘れるでしょう」と答えます。この鳩たちの会話を聞いた王子は、自分のもとに来ているワシリーサこそが本当の妻であったことを思い出し、記憶を取り戻します。こうして王子とワシリーサは再び結ばれ、仲睦まじく暮らしたということです。

この『竜王と賢女ワシリーサ』には複数の類話が存在します。アファナーシェフの民話集に収録されている『海の帝王とワシリーサ・プレムードラヤ』（224番）や『湖の帝王とワシリーサ・プレムードラヤ』（222番）などが代表的です。224番の類話では、主人公が王ではなく商人、王子が商人の息子イワンになるなど、設定に違いが見られます。また、竜王が異教の王ロブと呼ばれたり、鷺が鳩に変わったり、キスによって記憶を失う相手が妹ではなく名付けの母になったりしています。与えられる難行の数も増えています。一方で、3人の不思議な供のような存在は描かれていません。222番の類話では、鷲を飼育するエピソードがなく、代わりに旅先の湖で水を飲もうとした王が湖の帝王から同じような条件を突きつけられる形で物語が始まります。イワン王子は老婆の助言で鳩が変身した娘ワシリーサの衣類を隠し、結婚に至りますが、妻を選ぶ難題はありません。帰国後にワシリーサを忘れる点は共通しており、別れの際にワシリーサが言った通り、窓に鳩がぶつかるのを見て記憶を取り戻します。

物語の重要な登場人物である海の皇帝（露: Морско́й царь）は、日本語訳では「竜王」や「海の帝王」、「湖の帝王」、「海の王」など様々な呼称が用いられます。彼はロシアの民話における強大なキャラクターであり、海底世界の支配者、あらゆる水の源泉の主、そして水中に暮らす生命体の領主として描かれます。また、無尽蔵の財宝の持ち主でもあります。彼の住まいは水晶や金銀、宝石で飾られた海底宮殿であり、女王や水中の人々、水の乙女たちに囲まれています。その居場所は青い海、島の上、特定の湖の中など、物語によって異なります。海の皇帝が踊り楽しむときには、地上世界でも嵐が巻き起こるとされています。彼は『竜王と賢女ワシリーサ』だけでなく、叙事詩であるブィリーナの一つ『サドコ』をはじめ、多くのロシア民話や、ノルウェーの民話にも登場します。『サドコ』では、彼は商人サドコに富をもたらす存在として描かれますが、後にサドコを自身の水中帝国に呼び寄せようとします。このように、海の皇帝はロシアや周辺地域の民話において、時に恩恵を与え、時に試練を課す、強力な自然霊や精霊のような存在として重要な役割を担っています。娘であるワシリーサもまた、父親の力を受け継ぎ、王子の冒険を助ける賢者、あるいは魔法使いとして描かれています。このような水の支配者やその娘が登場する物語のモチーフは、ヨーロッパから東洋にかけて広く見られる普遍的なものです。

この物語は、主人公が困難を乗り越え、異界の助けを得て結ばれるという、民話によく見られるパターンを踏襲しつつ、特に女性主人公であるワシリーサの賢さ、機知、そして魔力が物語の推進力となっている点が特徴です。また、一時的な忘却と再会という要素も、多くの文化圏の物語に見られる普遍的なテーマと言えるでしょう。

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