緑色のストッキング

安部公房が書き下ろした戯曲であり、全14景から構成される作品です。物語は、緑色のストッキングに異常な愛着を持つ中年男性を主人公に展開します。彼の下着フェティシズムが妻と息子に露見し、自殺を試みた主人公が、食糧危機を研究する医師の実験台となり、「草食人間」へと変貌させられる異端な設定です。

この作品では、草食人間となった男と彼の妻、そして医師たちが織りなすシュールでブラックユーモアに満ちた人間模様が描かれます。平和や自由の象徴ともみられる「緑色」というシンボルが、どのように一人の人間を社会から疎外し、飲み込んでいくのか。そして、初めは滑稽で異質な存在に見えた草食人間が、周囲の非人間的な振る舞いの中で、かえって詩的な情感を帯び、人間性を回復していくさまが鮮烈に描き出されます。

単行本は1974年10月15日に新潮社から刊行されました。同年11月9日には、田中邦衛主演、安部公房自身の演出により紀伊國屋ホールで初演されています。翌年、本作は第26回（1974年度）読売文学賞戯曲賞を受賞しました。ドナルド・キーンによる英訳（Green Stockings）も存在します。

作品の背景と主題

本作は、1955年に発表された安部の短編小説『盲腸』を原形とし、さらにテレビドラマ化された『羊腸人類』を戯曲として改作したものです。安部は、戦後の満州からの「引揚者」としての飢餓体験が、人間の消化能力や食糧問題への発想の原点にあることを語っています。

『緑色のストッキング』について、安部自身は、当時の「食糧問題」とテーマが重なる側面はあるものの、これは以前から温めてきた構想だと述べています。作品の構成については、ブラックユーモアやグロテスクな表現を主体とし、人間関係を「裏返しに、内臓を切り開くような」手法を用いていると解説しています。また、草食人間が単に滑稽なだけでなく、ある瞬間に非人間化した人々の中で人間性を取り戻す「ポエジー」が現れることに言及。異端視される存在とその背後にある他者への不寛容や偏見が、作品の重要なテーマであることを示唆しています。

特に、草食人間が発する不快な腹の音は、観客に嫌悪感や偏見を抱かせるための効果音として用いられました。安部はこの音を「非常に重要なモーメント」とし、一人の人間を仲間として受け入れるか、異端として排斥するかの根源的なテーマがここに集約されていると語っています。また、下着泥棒というもう一つの「疎外要素」と「草を食う」という一見無関係な要素が、書いているうちに「見えない設計図」に導かれるように繋がっていったとも述べています。

あらすじ

下着泥棒が家族に発覚し、自殺を図った男は、ある病院で意識を取り戻します。そこで医師と助手から、藁や草だけを食べて生きられる「草食人間」になるための実験台になるよう強要されます。セルロース分解能力を持つ腸の手術を施された男は、その報酬の一部を家族に送金します。

男の息子は、婚約者と共に病院を探し出し、非常口から父を訪ねます。手土産として、かつて父親が盗み、彼が愛着を持つ緑色のストッキングを渡しますが、それは息子の婚約者の持ち物でした。驚きつつも男はそのストッキングに頬ずりし、片方穿いて喜びます。

息子たちが帰った後、突然男の腹が激しく鳴り出し、大きな放屁をします。これは草食人間化の証であり、2時間おきにこの「楽隊のような音」が鳴ると助手が説明します。男は戸惑いますが、助手は世間に成功を発表する際に、男に新しい人生に満足しているふりをしてほしいと頼みます。

男は服を着替えて逃亡を試みますが、非常口からは息子のノック、入口からは医師たちが食事を持ってくる気配がします。男は天井裏に隠れます。男が消えた部屋で、医師と男の家族が対峙。医師は男を「人類の進歩的存在」と称賛しますが、夫を連れ戻しに来た妻は、夫が下着好きのままであることに触れ、草が食べられるようになっただけで何も変わっていないことに安心したと反論します。その時、天井から腹の鳴動音が響き、男が緑色のストッキングを投げ落とし、全員に退室を叫びます。しかし、医師も妻も立ち去ろうとしません。

便意と尿意を催した男は、助手に下着コレクションを回収させ、非常口を施錠させ、誰も出られないようにしてから天井から降ります。男が衝立の陰で用を足す間、部屋はインタビュー撮影のためにセットされます。異様な食事風景が記録される中、砂糖黍、麦藁、杉材屑で作られたパンを咀嚼するのに苦労する男を介抱する妻と、草食人間に良いイメージを与えたい医師が対照的に描かれます。男は誰か次に続く意思表示を求めますが、誰も名乗り出ません。嫉妬した息子が、次は女性が良いと提案し、父に誰が良いか尋ねます。妻はその時、夫の去勢手術を医者に依頼し同意を求めます。

男は咀嚼を止め、苦しそうな上眼づかいで周囲を見回し、ゆっくりと息子の婚約者を指さします。おびえる婚約者と戸惑う妻に、男は「ストッキングだよ、あの、緑色の……あんなのが、また手に入ったら…」と呟きます。突然腹が鳴り出し、男は衝立の陰へ駆け込みます。

しばらくしても戻らないため、息子が衝立の陰を覗くと、男の姿はありません。天井にも部屋のどこにも消えていました。息子が壁に映る草原の風景を見ると、そこを逃げる父親らしき一点を見つけます。医師はゆっくりと近づき、スリッパでそこを叩きつけ、「虫だよ、虫。つまらない、ただの虫けら！」と言い放ちます。一同は壁の染みを静かに見つめ続けます。

登場人物

男: 主人公。学校教師。下着フェティシズムによる下着泥棒が露見し、自殺未遂後に草食人間となる。
医者: 食糧危機対策として白蟻の能力を用いた研究を行う。老婆の牧場の土地を買い取り、病院と研究室を設立する。
助手: 医者の学生助手。研究成果には悲観的だが、資金稼ぎのために追従する。看護婦の恋人。
看護婦: 学生助手の恋人。結婚資金稼ぎのために研究に追従。男に下着を盗まれても金銭で補填されるため気にも留めず、男の妻と対立する。
老婆: 夫を亡くし、牧場で一人白蟻を食べて暮らしていた。医者に土地を買い取られ、死後そこが研究施設となる。
男の妻: 草食人間となった夫を連れ戻し、夫の下着フェティシズムを治すために下着泥棒を手伝うことも厭わないと考える。
男の息子: 父親からの仕送りを生活費にあて、父親が病院にいても良いと考える。
息子の婚約者: 緑色のストッキングの元の持ち主。手芸教室を開く予定。探偵小説好きで、病室から早く出たがる。
裏方C、D: 病院の入院患者とその妻。男の世話や病室の模様替えをする。
裏方A、B: 男の病室の模様替えをした後、特報通信のカメラマン、インタビューアーとなる。

作品評価

『緑色のストッキング』は、発表当時に読売文学賞を受賞するなど高い評価を得ました。ドナルド・キーンも「輝かしい成功作」と評しています。特に、幕開け前から鳴り響く腹の音を、草食人間が主人公である本作に「最もふさわしい〈音楽〉」と表現し、主人公が下着泥棒だと家族に知られる場面を「実によく出来た場面」としています。また、登場人物に名前がない点について、必ずしも普遍性を意図したものではなく、安部が芝居においてそれを不要と考え、個人の悲劇よりも社会や地球規模の悲劇・喜劇に関心を寄せていたことの表れだと解釈しています。

主な公演・刊行

初演: 第6回紀伊國屋演劇公演・安部公房スタジオ公演として、1974年11月9日から30日まで新宿・紀伊國屋ホールで上演。演出：安部公房、主演：田中邦衛。
主な刊行本: 『書下ろし新潮劇場緑色のストッキング』（新潮社、1974年）、文庫版『緑色のストッキング・未必の故意』（新潮文庫、1989年）、英文版『Three Plays by Kobo Abe』（Columbia University Press、1993年）に収録されています。

本作は、安部公房の戦後の飢餓体験や社会への批評精神、そして人間存在の深淵を、独特のブラックユーモアとシュールな展開で描き出した重要な戯曲です。

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