聖書の説話とクルアーンの関係

イスラームの聖典クルアーンと、ユダヤ教やキリスト教の聖典である聖書は、共通の説話や登場人物を有しています。しかし、両聖典における記述には重要な違いが見られます。本稿では、これらの違いを中心に、物語の背景にある教訓や宗教的な意義を考察します。

西洋の学者の中には、聖書の説話がクルアーンの起源に影響を与えたと考える者もいます。しかし、伝統的なムスリムの観点では、クルアーンは神アッラーフが天使ジブリールを通じて預言者ムハンマドに啓示したものであり、神の言葉そのものであると信じられています。クルアーンの物語は、詳細よりも道徳的、宗教的な教訓に重点を置いており、聴衆が物語の基本的な内容を既に知っているという前提で、その教訓を強調する傾向があります。

聖書もまた神の啓示を反映していると考えられていますが、人間の手によって内容が歪められている（タフリフ）と見なされています。クルアーンは、この歪みを修正するために啓示されたとされています。ムスリムは、聖書の内容をクルアーンと比較し、一致する箇所は受け入れ、矛盾する箇所は拒否するという指針を持っています。聖書にのみ登場する物語については、信じることも信じないことも自由とされています。

また、聖典の解釈には、訳者の主観や文化的な背景が影響を与えるため、表面的な類似点にとどまらず、体系的な差異を認識する必要があるという考え方もあります。

モーセ五書の物語

アダムとイヴ

創世記とクルアーンでは、アダムとイヴの創造、楽園での生活、禁断の木の実を食べたことによる追放が語られています。

- 創造: 聖書では、神は土からアダムを創造し、アダムの肋骨からイヴを創造したとされています。クルアーンでは、アダムは粘土と神の言葉から創造され、イヴは一つの魂から創造されたとされています。また、アッラーフはアーダムにすべての名前を教えたとされ、聖書のようにアダムが動物の名前を付けるという記述はありません。
- 楽園: 二人は楽園で禁断の木の実を食べることを禁じられます。聖書では、その木は善悪の知識の木とされ、果物はリンゴと描写されることが多いですが、聖書に明記はありません。クルアーンでは、木の名は不明です。また、誘惑の理由についても、聖書では神のようになるためとされますが、クルアーンでは永生と衰えない王権への誘惑とされています。
- 追放: 二人は禁断の木の実を食べた結果、裸を恥じ、神の質問に答えます。神は彼らを楽園から追放し、人類と誘惑者の間に敵意を生じさせました。誘惑者についても、聖書では蛇、クルアーンでは悪魔イブリースとされています。

カインとアベル

聖書とクルアーンには、カイン（カビル）とアベル（ハビル）の兄弟の物語があります。カインの供物が受け入れられなかったため、カインはアベルを殺害します。クルアーンではカインとアベルの名は明記されていませんが、イスラームの伝承でカービールとハービールと呼ばれています。神がどちらの供物を受け入れたか、その理由については明記されていません。聖書ではカインが神の指示に従わなかったことが原因だと推測されていますが、イスラム伝承では結婚相手をめぐる争いが原因だとされています。

ノア

ノアの箱舟の物語は、聖書とクルアーンの両方で語られています。神は、邪悪な人々を滅ぼすため、ノアに箱舟を作るよう命じます。ノアは家族と動物たちを箱舟に乗せ、大洪水から生き残ります。

- 洪水: 聖書では全世界的な大洪水として描かれていますが、クルアーンでは地域的なものとも解釈できます。聖書の記述では「天の下のすべての高い山が水に沈んだ」とあり、世界的規模の洪水とも解釈できます。
- 箱舟: クルアーンでは、ノアの息子の一人が洪水で死亡したとされています。創世記では息子は3人、妻と息子の妻の記述がありますが、クルアーンには具体的な家族構成の記述はありません。また、箱舟が漂着した場所についても、聖書ではアララト山、クルアーンではジューディー山とされています。

アブラハムとイサクの燔祭

アブラハム（イブラーヒーム）が息子を神に捧げようとする物語は、聖書とクルアーンの両方に存在します。創世記では、供物とされた息子はイサクと明記されていますが、クルアーンではあいまいです。伝統的なムスリムは、この息子はイスマーイールであると解釈していますが、一部の学者にはイサクとする見解もあります。

- 神の啓示: 聖書では、神はアブラハムに直接語りかけますが、クルアーンでは夢を通じて啓示します。また、クルアーンではイブラーヒームは息子に供物となることを伝えていますが、聖書ではアブラハムはイサクに「神が備えてくださる」と伝えています。

ロト、ソドムとゴモラ

ロト（ルート）が住むソドムとゴモラが神によって滅ぼされる物語も、両聖典に共通しています。ロトは神の使者に町の人々の悪行を伝えられ、家族とともに町から逃れることを勧められます。

- ロトの役割: 聖書では、ロトは町の門に座り、人々からの助言を求める存在として描かれています。クルアーンでは、ロトは預言者とされています。
- ロトの妻: 聖書では、ロトの妻は町を振り返ったために塩の柱に変わってしまいますが、クルアーンでは町を離れなかったとされています。また、聖書ではアブラハムが町を救うために神に交渉を試みますが、クルアーンではアブラハムは神の慈悲を諦めるように宣告されます。

ヨセフ

ヨセフ（ユースフ）の物語は、創世記とクルアーンに詳細に記述されています。ヨセフは夢を解釈する能力を持ち、エジプトで高い地位につきます。飢饉の際には兄弟たちがヨセフのもとに食料を求めにやってきます。最終的に、ヨセフは兄弟たちに正体を明かし、家族は再会を果たします。

- 夢: ヨセフが見た夢の内容に若干の違いがあります。聖書ではナイル川から上がってきた7頭の雌牛の夢ですが、クルアーンでは11の星と太陽と月がヨセフにひれ伏す夢です。
- 誘惑: 主人の妻に誘惑された場面の記述に違いがあります。聖書では妻の主張がメインですが、クルアーンではヨセフの潔白が強調されています。

モーセ

モーセ（ムーサー）の物語は、聖書では出エジプト記に詳しく書かれ、クルアーンでも重要な預言者として何度も登場します。モーセは、ファラオの奴隷となっていたイスラエル人を救い出すために、神の啓示を受け、数々の奇跡を起こします。

- 目的: 聖書では、モーセの第一の目的はイスラエル人を奴隷制から解放することですが、クルアーンではファラオを唯一神に改宗させることが主な目的とされています。
- モーセとアロン: 聖書では、モーセは弁舌が苦手で、兄のアロンがモーセの代弁者として活動しますが、クルアーンではハールーンはアッラーフの使者としてムーサーをサポートします。
- 奇跡: クルアーンでは、魔術師たちがムーサーの奇跡を見てアッラーフに帰依しますが、聖書ではこの記述はありません。また、ファラオの溺死についても、クルアーンでは、ファラオの遺体が後世への教訓として残されるとされています。
- モーセの不在: モーセが山にいる間、イスラエル人が黄金の牛の偶像を崇拝する場面についても、聖書ではアロンが偶像製作を主導しますが、クルアーンではハールーンは偶像崇拝に抵抗します。

コラ

コラ（カールーン）の物語は、聖書とクルアーンで異なる側面から描かれています。聖書ではモーセに反抗する人物として描かれ、地割れによって滅ぼされますが、クルアーンでは裕福で尊大な人物として描かれています。

旧約聖書の物語

ギデオン

ギデオン（ジドウーン）の物語は聖書にのみ登場します。神はギデオンを通じてイスラエル人を勝利に導きますが、クルアーンではこの物語はタールートの軍隊に置き換えられています。タールートの軍隊は少数の精鋭によって勝利を収めます。

サウル、ダビデ、ゴリアテ

サウル（タールート）、ダビデ（ダーウード）、ゴリアテ（ジャールート）の物語も、聖書とクルアーンの両方に登場します。イスラエル人が王を求めたため、サウルが王に選ばれます。ダビデはゴリアテを倒し、イスラエルの英雄となります。クルアーンでは、ゴリアテはペリシテ軍の戦士ではなく、指導者として描かれています。

シバの女王

シバの女王がソロモン（スライマーン）を訪問する物語も、聖書とクルアーンで描かれています。聖書では女王はソロモンの知恵と富に感銘を受けますが、クルアーンでは一神教に改宗し、スライマーンと結婚します。

ヨナ

ヨナ（ユーヌス）が大きな魚に飲み込まれる物語は、聖書とクルアーンの両方に存在します。ヨナは神の命令に背き、タルシシに逃げようとしますが、神はヨナを魚に飲み込ませ、最終的にニネベへ向かわせます。

- ヨナの行動: クルアーンでは、ヨナが自分の民に失望し、神の許可なく彼らを委ねようとした点が強調されます。聖書では、タルシシに逃げようとするヨナの意思に焦点が当てられています。
- 魚の中の祈り: クルアーンでは、ヨナが魚の中で祈らなかった場合、裁きの日まで魚の中にいることになっていただろうとされています。また、魚の腹から聞こえる声に、他の海の生き物たちが耳を傾けていたというイスラム伝承もあります。

ハマン

ハマンは、聖書のエステル記に登場するペルシャ帝国の高官ですが、クルアーンではモーセ時代のファラオの顧問として登場します。聖書とクルアーンでは同一人物であるとはされていませんが、一部の解釈では、同一人物が時代を超えて生き続けていると考えることもできます。聖書とクルアーンでのハマンは、どちらも支配者の側近として、神の意志に反する行動をとっています。

新約聖書の物語

ザカリアとヨハネ

ザカリア（ザカリーヤー）とヨハネ（ヤフヤー）の物語は、ルカによる福音書とクルアーンに登場します。ザカリアは高齢で不妊でしたが、神の啓示により息子ヨハネを授かります。神は、ヨハネが生まれるまで、ザカリアの口をきけなくしました。

- ザカリアの役割: 聖書では、ザカリアは司祭として神に仕えます。クルアーンでは、預言者として描かれています。聖書ではザカリアが神の言葉を疑ったために罰せられますが、クルアーンでは老齢であることと妻が不妊であることを理由に、神の力を疑ったとはされていません。

マリア

マリア（マルヤム）の物語は、ルカによる福音書とクルアーンに詳細に記述されています。マリアは処女のままイエス（イーサー）を身ごもります。聖書ではマリアはヨセフと婚約しているとされますが、クルアーンではヨセフについて記述はありません。

- 受胎: クルアーンでは、神の言葉によってマリアがイエスを身ごもったとされています。また、マリアは自らの処女性を主張し、姦淫を責められます。
- イエスの誕生: 聖書では、マリアはヨセフとベツレヘムでイエスを出産します。クルアーンでは、出産時の詳細な状況やイエスの言葉が描かれています。

イエス

イエス（イーサー）は、聖書では救世主として描かれていますが、クルアーンでは預言者として描かれています。クルアーンではイエスは神の子ではなく、神の言葉を伝えるメシアであり、神と一体であるとはされていません。

- 三位一体: キリスト教の三位一体の教義は、クルアーンでは否定されています。クルアーンでは、神は唯一無二であり、神が肉体を持つことはありえないとされています。

その他の人物

クルアーンと聖書には、共通する人物が50人以上登場します。クルアーンでは、イドリース（エノク）、イスマーイール（イシュマエル）などが預言者として描かれていますが、聖書ではこれらの人物は預言者とはされていません。

類似点

クルアーンと聖書には、同じ出来事を異なる文脈で語る場合があります。例えば、金の子牛像を崇拝する物語は、聖書ではヤロブアムが作ったものも含まれますが、クルアーンではサーミリーという人物が偶像崇拝を支持したという物語になっています。

ミリアムとマリア

アラビア語では、ミリアムとマリアはどちらも「マルヤム」と呼ばれます。クルアーンでは、イエスの母マルヤムをハールーンの妹、イムラーンの娘と表現しています。これは、聖書に登場するモーセの姉ミリアムと混同されている可能性があります。

しかし、イスラームの伝統では、これは精神的な意味での姉妹であり、同時代に同じ名前の人物が存在した可能性を示唆しています。

ハンナとアンナ

聖書では、ハンナはサムエルを授けられた母であり、クルアーンでは、マルヤムの母が神に感謝してマルヤムを神に捧げるとの誓いを立てます。聖書とクルアーンで、同じように子供を神に捧げる女性が描かれています。

まとめ

クルアーンと聖書は、共通の説話や登場人物を多く有していますが、それぞれに独自の視点や解釈があります。これらの違いを理解することは、両聖典の関係性をより深く理解する上で重要となります。また、これらの物語は宗教的な教訓や道徳的な価値観を伝える役割を果たしており、それぞれの伝統の中で重要な意味を持っています。

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