華僑強制献金

華僑強制献金事件

華僑強制献金とは、第二次世界大戦中の1942年、日本軍が占領下のマレー半島やシンガポール、ボルネオ島において、華僑住民に強要した献金のことです。特にマレー半島とシンガポールでは、目標金額が5,000万ドルと定められたことから、「5,000万ドル強制献金」とも呼ばれています。

事件の経緯

身代金の要求

1942年3月初旬、日本軍のマライ軍政部次長である渡辺渡大佐の部下、高瀬通は、華僑協会の幹部に対し、「華僑は日本軍に敵対したため本来は皆殺しにすべきだが、献金で罪を償えば許す」と述べ、日本軍への献金を要求しました。当初、華僑協会の幹部はこれに応じる姿勢を見せましたが、その一方で、資産家の華人が次々と憲兵隊に連行され、拷問を受けているという情報が伝わり、不安が広がりました。

その後、華僑協会の連絡会員約50名が軍政部の宿舎に呼び出され、渡辺と高瀬から、5,000万ドルから6,000万ドルの献金をすれば、安全と財産を保障し、過去の罪を不問にすると提案されました。これは事実上の身代金要求であり、華僑社会に大きな衝撃を与えました。

賦課額の決定

献金を要求された華僑協会では、資金を集める方法について協議が行われました。銀行家であった陳永謙は、マレー半島で発行されたドル紙幣の総額が2億2,000万ドルしかないため、5,000万ドルもの巨額な資金を集めるのは困難であると主張しました。しかし、最終的には総額5,000万ドルとなるように、各州に献金額が割り当てられました。

献金額の配分方法については、海峡植民地生まれの華人グループは資産額に比例して献金額を賦課することを提案しましたが、中国生まれの華僑グループはこれに反対しました。最終的に、資産が3,000ドル未満の者は免除、3,000ドル以上の者は総資産の8％を献金するという案が採用されました。

陸軍省の追認

1942年3月21日、陸軍省は、この強制献金が各民族対策との整合性を欠くと懸念を示しつつも、その措置を容認しました。そして、5,000万ドルの使途について説明を求めました。同年3月27日、第25軍軍政部は、5,000万ドルは法外な額ではなく、計画に支障をきたさないと釈明し、使途を国庫供託金や建設公債発行資金など7項目に充当すると回答しました。これを受けて、陸軍省は配分と使途を了承しました。

献金集め

当時の華僑社会では、銀行資産が日本軍によって凍結されていたため、十分な現金を用意できる者は多くありませんでした。そのため、献金を支払うために家財や不動産を安値で処分せざるを得ない人が多く、華僑は非常に苦しい生活を強いられました。当初の締め切りである3月末までに集められた献金額は、シンガポールでは目標額の3割程度に過ぎませんでした。軍政部は、各州の華僑協会の指導者をシンガポールに集めて会議を開催し、月末までに必ず目標額を集めるように指示しました。

しかし、状況は改善せず、軍政部は締め切りを4月25日に延期しました。それでも目標額には遠く及ばず、軍政部はさらに強硬な手段に出ることになります。

『華僑工作実施要領』

1942年4月19日、軍政部次長から軍政部長に昇進した渡辺は、極秘通達『華僑工作実施要領』を発出しました。この通達は、それまでの「誘引工作」による華僑対策を転換し、日本軍に協力しない華僑には「断固その生存を認めざるものと」するという強硬な内容でした。さらに、シンガポールなどの主要都市の有力華僑に対し、「最低5,000万ドルの資金調達を命」じ、協力しない者には財産の没収や一族の追放などの処罰を行うとしました。この通達により、華僑への圧力がさらに強まりました。

4月20日の点検でも、献金額は目標額に遠く及ばず、高瀬は再び各州の華僑協会の代表を呼び出し、激しく詰問しました。締め切りは6月25日に再度延期されました。

決着

1942年6月20日、各州の代表がシンガポールに集められました。この時点で集められた献金額は2,800万ドルでした。交渉の結果、高瀬は2,200万ドルを横浜正金銀行からの借入金で賄うことを許可し、借入金は1年以内に6％の利息を付けて返済することになりました。各州の代表が借入金返済の保証人となることで、ようやく決着しました。

献金奉納式

1942年6月25日、フラトン・ビルの軍政部の一室で、献金奉納式が行われました。華僑協会の代表ら約60人が集められ、渡辺や高瀬などの軍政部要人が見守る中、第25軍司令官の山下奉文に5,000万ドルの小切手が手渡されました。山下は、「華僑のこれまでの援蒋、親英行為の罰から救うものではない。華僑が今後しなければならぬことは日本軍と協力することである」と警告し、日本軍の正当性を主張する演説を行いました。

その後の影響

戦後、華僑協会への2,200万ドルの貸付金は弁済不要とされましたが、2,800万ドルの献金は返還されませんでした。華僑団体は、対日賠償請求の中で、この強制献金の返還を求めることになります。

この事件は、当時の陸軍省内部からも、民心掌握の原則に反するという批判がありました。また、事件後、渡辺自身も「少しやり過ぎたかなあ」と漏らしたとされています。

軍政監部警察部長であった大谷敬二郎は、この事件が民心把握を困難にし、抗日ゲリラの勢力を増大させたと評価しています。

シンガポール市政会も、この献金が中国人の対日感情を悪化させ、軍政にとって大きなマイナスになったと結論付けています。

明石陽至は、短期的には軍政の財源となったかもしれないが、長期的にはマラヤ軍政史に残る汚点となったと評価しています。

北ボルネオの華僑献金

北ボルネオでも、1942年7月、ボルネオ守備軍司令官の命令で、華僑指導者が集められ、同様に献金が強要されました。マレー半島よりも低い金額が設定されましたが、華僑への圧迫は同様でした。




この華僑強制献金事件は、日本軍による占領下の東南アジアで、華僑住民に大きな苦痛を与えた出来事であり、その後の対日感情や賠償請求に大きな影響を与えた、重要な歴史的事件として記憶されています。

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