薬師院 (高梁市)

岡山県高梁市（たかはしし）上谷町（うえだにちょう）に静かに佇む薬師院（やくしいん）は、その正式名称を瑠璃山 泰立寺 薬師院（るりざん たいりゅうじ やくしいん）と称する、長い歴史を持つ古刹です。

寺院の由来を記す寺伝によれば、平安時代中期にあたる寛和2年（968年）に、時の花山法皇（かざんほうおう）が開基となって創建されたと伝えられています。当初、薬師院は現在の備中高梁駅周辺にあたる原村（はらむら）の地に建立されました。しかし、時の流れの中で二度にわたる火災に見舞われ、寺勢は一時衰退の憂き目を見ることとなります。

江戸時代に入り、慶長5年（1600年）、備中国の代官として赴任した小堀正次（こぼり まさつぐ）は、高梁の城下町における大規模な整備事業に着手しました。この城下町の再編計画に伴い、薬師院は従来の原村から、現在の上谷町の地へと移転されることになりました。

移転後の境内整備は本格的に進められました。中でも特筆すべきは、寺院の堅牢な基盤となる石垣（いしがき）の築造です。この石垣の工事は、移転直後から着手され、実に二十余年（にじゅうよねん）という長い歳月をかけて行われました。そして、元和10年（1624年）、当時の51代目の住職であった宥遍（ゆうへん）上人の代に至って、ついにその壮大な姿が完成を迎えたのです。現在も残るこの石垣は、江戸時代初期における大規模な土木技術を示すとともに、薬師院がこの地に移り、基盤を固めた歴史を物語っています。

また、この移転・整備と時を同じくして、境内には庭園（ていえん）も造営されました。この庭園は、江戸時代初期の様式を留めており、特に密教（みっきょう）的な思想や世界観が反映された独特の雰囲気を持つことで知られています。石組みや配置に、当時の造園思想が見て取れます。

薬師院は、その長い歴史の中で培われた価値を今に伝えており、境内には貴重な文化財が多数存在します。本堂は岡山県指定重要文化財に指定されており、その建築様式や内部の仏像など、歴史的・美術的な価値が認められています。また、寺の入り口に立つ仁王門（におうもん）と、衆生の苦しみを救うとされる延命地蔵菩薩（えんめいじぞうぼさつ）は、それぞれ高梁市指定重要文化財となっています。これらの文化財は、薬師院が地域社会において果たしてきた役割や、信仰の歴史を物語る重要な手がかりとなっています。

創建から千年以上を経て、二度の火災、そして城下町整備に伴う移転という大きな変遷を経ながらも、薬師院は高梁の地に根ざし、信仰の場として大切に守られてきました。江戸時代初期に完成した壮大な石垣や、当時の様式を伝える庭園、そして指定文化財となっている諸堂宇や仏像は、薬師院が歩んできた歴史の証であり、現在も多くの人々にとって心の拠り所となっています。

高梁市の歴史景観の一部を形成する薬師院は、古都高梁を訪れる人々にとって、その深い歴史と文化に触れることのできる貴重な存在であり続けています。

もう一度検索