虚人たち

『虚人たち』：小説表現の極限への挑戦

筒井康隆による小説『虚人たち』は、1979年から1981年にかけて『海』誌に連載され、1981年に単行本化された作品です。ル・クレジオの小説『巨人たち』へのオマージュであるタイトルからも示唆されるように、この小説は小説表現そのものへの実験的試みが随所にちりばめられた、独特の雰囲気を持つ作品となっています。従来の小説の枠にとらわれない大胆な手法は、読者に大きな衝撃を与え、同時に多くの謎と問いかけを残しました。泉鏡花文学賞を受賞するなど高い評価を得た一方で、難解さゆえに大衆的な成功とは無縁でした。しかし、この作品は筒井康隆の作家としての新たな地平を切り開く、重要な分岐点となったと言えるでしょう。

時間の厳格な制御：定時法の採用

『虚人たち』における最も顕著な実験は、時間の描写にあります。この小説は、原稿用紙1枚を1分間に相当する時間とみなすという徹底した「定時法」を採用しています。主人公の意識の流れと時間の流れを完全に一致させることで、通常の小説では省略されがちな、トイレ休憩や気絶といった時間までも詳細に描写しています。主人公が意識を失っている間はページが白紙となり、時間の経過を視覚的に表現している点も特徴的です。

この定時法と相まって、小説の文体は現在形が用いられています。さらに、セリフ部分を除き、改行や読点も極力排除することで、時間の流れの一様性を強調しています。また、主人公が現在の意識のまま過去や未来へ移動する場面もあり、夢の中で時間を超越するような感覚を小説の中で再現しようとする試みが見られます。これらの時間操作は、読解に高い集中力と理解力を要求する、難解な構成となっています。

全知的な主人公：空間の越境

空間の描写においても、従来の小説とは異なる手法が用いられています。一般的な三人称小説では作者が「神の視点」を持つのに対し、『虚人たち』では主人公木村が全知的な視点を持って物語が展開されます。主人公はあらゆる場所、あらゆる出来事を同時に知覚することが可能ですが、この能力が物語の解決に大きく貢献するわけではありません。むしろ、この能力は主人公の置かれた状況の不条理さを際立たせる役割を担っています。

自意識を持つ登場人物：フィクションのメタ構造

登場人物たちは、自分たちが「小説の中の登場人物」であることを自覚しています。現実世界においては、誰も自分が脇役であると認識しないことから、この小説の登場人物もそれぞれが主人公意識を持って行動します。隣人や主人公の息子など、それぞれのドラマを抱え、複雑で屈折した人間像が描かれています。主人公木村自身も、自分がこの小説の語り手であるにもかかわらず、小説の設定を知らされていません。鏡を見て自分の容姿を確認し、表札を見て自分の名前を知るという、奇妙な状況に置かれています。

偶然の一致：現実離れした事件

物語の中心となるのは、主人公の妻と娘が別々の犯人によって、同時に誘拐されるという、現実にはありえない出来事です。この非現実的な設定は、小説の虚構性を際立たせるための、作者による大胆な実験と言えるでしょう。作者自身も、この手法の文学的価値について明確に答えを出していません。

不完全な風景：設定の曖昧性

風景描写においても、作者による意図的な曖昧さが見て取れます。例えば、主人公の家の山水画は、その詳細な描写がなく、「山水画という文字が書かれているだけかもしれない」とさえ語られています。風景自体も、それぞれの登場人物のドラマを反映するかのように、多様な意味を持つ存在として描かれています。街中を走る車の窓から見える家や店は、それぞれの物語の舞台として捉えることができるのです。

物語のあらすじと評価

『虚人たち』は、妻と娘を誘拐された男が、周囲の無関心に直面しながら、単独で2人を捜索する物語です。しかし、この物語は従来の小説のあらすじに則って説明することは困難です。この作品は、筒井康隆の初期のSF作品とは異なる、純文学、実験小説としての新たな挑戦であり、彼の作家人生における重要な転換期を示す作品と言えるでしょう。発表当時、多くのファンを戸惑わせた作品ではありましたが、後の『文学部唯野教授』や『パプリカ』といったベストセラー作品へと繋がる、実験的手法の蓄積の過程を示すものです。また、虚構性というテーマは、その後も彼の創作活動において重要なテーマとして追求され続けることになります。

まとめ

『虚人たち』は、時間、空間、登場人物、事件、風景といった小説の構成要素を、徹底的に実験した作品です。難解で理解しづらい部分も多いですが、その実験的な試みは、小説表現の可能性を大きく広げるものです。この作品は、筒井康隆の作家としての幅の広さ、そして実験精神の強さを示す、重要な作品と言えます。

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