軽井沢蒸留所

幻となったジャパニーズウイスキー、軽井沢蒸留所

長野県北佐久郡御代田町に位置していた軽井沢蒸留所は、日本のウイスキー史において特異な存在感を放つ場所です。かつてはキリンホールディングス傘下のメルシャンが運営していましたが、ウイスキー市場の低迷という時代の流れを受け、2000年にその生産活動を停止。そして2011年には完全に閉鎖され、建物も解体されました。しかし、皮肉なことに、その閉鎖後にここで造られたウイスキーの卓越した品質が世界中で見直され、今や「幻のウイスキー」としてコレクター垂涎の的となり、オークション市場では驚くべき高値で取引されています。

黎明期から軽井沢への道

軽井沢蒸留所のルーツは、1934年に実業家・宮崎光太郎が創業した大黒葡萄酒に遡ります。当初ワインやブランデーを主力としていた同社は、戦後、宝酒造からの独立を経て、ウイスキー製造事業に乗り出しました。1940年代後半、東京工場で3級ウイスキーを生産していましたが、品質にこだわる宮崎は余市蒸溜所から良質のモルト原酒を調達し、ブレンドに使用していました。しかし、ウイスキー販売量の増加に伴い、安定したモルト原酒の確保が急務となります。

この課題に応えるべく、大黒葡萄酒は1952年、長野県塩尻市のワイナリー敷地内に塩尻蒸留所を設立しました。これは既存のブランデー製造設備と免許を活用するための選択でした。しかし、塩尻でのウイスキー造りは困難を極めます。既存設備の流用や浅い井戸水の質問題、さらには蒸留廃液の不適切な処理による水質汚染などが重なり、発酵不良やニューメイク（蒸留されたばかりの原酒）の不快な風味に悩まされました。深井戸の掘削や水質改善フィルターの導入、酵母の変更など様々な試みが行われましたが、抜本的な解決には至りませんでした。結局、塩尻でのウイスキー製造は1955年末に幕を閉じました。

スコッチを目指した軽井沢での挑戦

塩尻での経験から、大黒葡萄酒は新たなモルトウイスキー蒸留所を建設地を求め、長野県軽井沢町に着目します。軽井沢は、豊富な浅間山の伏流水、広大な敷地、廃液処理の確保が可能であり、気候もウイスキー造りに適していました。1955年、軽井沢蒸留所の建設が始まり、1956年初頭には本格稼働を開始します。

軽井沢では、塩尻時代の反省を踏まえ、最新の設備が導入されました。麦芽粉砕機、ロイター式の濾過槽、ホーロー内張りの糖化槽などが新設され、塩尻から移設したポットスチルに加えて新たに2基が追加されました。当初は国産麦芽の入手に苦労するなど課題もありましたが、品質向上への探求が続けられます。酵母や糖化、蒸留工程での様々な実験を重ねた結果、次第にスコッチウイスキーに匹敵する芳香を持つ原酒が生まれるようになります。1959年には新たな設備投資が行われ、軽井沢のニューメイクの品質は飛躍的に向上。実験室レベルだけでなく、実際の生産現場で「スコッチライク」な原酒を造り出すことに成功したのです。この頃にはウイスキー事業が売上の大半を占めるようになり、大黒葡萄酒は1961年に社名を「オーシャン」に変更しました。

合併と「黄金期」の到来

1962年には、激化する「ウイスキー戦争」を背景に、オーシャンは全国的な販売網を持つ三楽酒造と経営統合し、「三楽オーシャン」が誕生します。三楽酒造は原料用アルコールの製造から始まり、川崎工場や山梨蒸留所でウイスキー製造も行っていましたが、オーシャンとの合併により総合酒類メーカーへと転身を図りました。

合併後のウイスキー製造体制の再編の中で、三楽酒造の山梨蒸留所が抱えていた問題が明らかになります。特に、ステンレス製のポットスチルが硫黄成分を吸着しないために発生する刺激臭は深刻でした。この問題が解決されないまま、1964年には軽井沢の設備増強に伴い山梨でのモルト生産は停止され、三楽オーシャンのモルト原酒製造は軽井沢に一本化されます。

1960年代後半からは、日本のウイスキー市場に高級志向の波が訪れます。三楽オーシャンもこれに対応するため、1967年にはスコットランドから技術者を招き、1969年には川崎工場にカフェ式連続蒸留器を導入してグレーンウイスキーの製造を開始。軽井沢でモルト、川崎でグレーンを造り、両地で熟成させる生産体制が確立しました。

この時期、軽井沢蒸留所では大規模な設備更新も行われ、1978年から1981年にかけて生産能力が大幅に増強されました。この時期に蒸留された原酒は特に品質が高いとされ、一部の専門家からは「黄金期」と評されています。そして1976年には、日本で初めてのシングルモルトウイスキー「軽井沢シングルモルト・ウイスキー」を発売。皇太子時代の明仁親王（後の上皇）が愛飲したという逸話も残されています。

市場の変遷と閉鎖、そして伝説へ

しかし、1980年代に入るとウイスキー市場は低迷期を迎えます。消費者の嗜好も重厚な味わいから軽やかなものへと変化し、軽井沢のスタイルは時代の流れに逆行する形となりました。経営母体も「三楽」、そして「メルシャン」と社名を変更し、ウイスキー以外の事業にも注力するようになります。生産規模は縮小され、末期はごく少人数での稼働が続く状況でした。そして、ウイスキー不況の長期化を受け、2000年12月31日をもって軽井沢蒸留所はその歴史に幕を閉じました。

蒸留所閉鎖後、日本のウイスキーが世界的な注目を集めるようになると、軽井沢の原酒も再評価されます。閉鎖直後の2001年には「軽井沢ピュアモルト・ウイスキー12年」が国際的なコンペティションで金賞を受賞。その希少性と品質の高さから、残された原酒の価値は急速に高まります。2011年には、キリン傘下となっていたメルシャンから、残りの原酒すべてがインディペンデントボトラーであるナンバーワンドリンクス社に売却されました。同年11月には蒸留所自体も完全に閉鎖され、2016年までに建物はすべて解体されました。

オークション市場を席巻

閉鎖によって新たな生産が途絶えたことで、軽井沢のウイスキーは文字通り「幻」となりました。市場に出るボトルは限られ、その希少性と卓越した品質が相まって、オークションでは驚異的な価格で取引されるようになります。特に長期熟成のボトルは非常に価値が高く、2015年には「軽井沢1960年」が1本約1420万円で落札され、当時のジャパニーズウイスキー史上最高額を記録しました。その後も記録更新は続き、2020年には同じボトルが約4690万円で落札されるなど、世界のウイスキー市場における最高峰の一つとしてその地位を確立しています。

軽井沢ウイスキーの新たな息吹

軽井沢蒸留所は姿を消しましたが、この地でのウイスキー造りの伝統を復活させようという動きが生まれています。2021年には、地元の酒造メーカーである戸塚酒造が長野県佐久市に「軽井沢ウイスキー蒸留所」を設立。旧軽井沢蒸留所の元マスターや蒸留担当者を招き、メルシャン時代の軽井沢の味わいを再現することを目指しています。また、軽井沢町に近い小諸市には、国際的なブレンダーを擁する「小諸蒸留所」が誕生。メルシャン軽井沢のスタイルにとらわれず、新しい個性を持つウイスキー造りに挑戦しています。これらの新たな試みは、軽井沢がウイスキーの聖地として再び注目される可能性を秘めています。

軽井沢蒸留所の製造哲学

軽井沢蒸留所の特徴は、一般的な日本の蒸留所とは異なり、単一のスタイル、すなわちパワフルでスモーキー、重厚な原酒造りに徹していた点です。原料にはスコットランドでも希少なゴールデンプロミス種の麦芽を100%使用。製麦、仕込み、発酵工程にもこだわり、特に発酵にはオレゴンパイン製の木桶発酵槽を使用していました。蒸留には非常に小型で特殊な形状のポットスチルを用い、これがヘビーな原酒を生み出す要因の一つとされています。熟成はシェリー樽が中心で、自社でクーパレッジを持ち、メルシャン製のシェリー酒でシーズニングした樽を使用していました。樽同士をヴァッティングしてから再び樽に戻すという独自の工程や、夏の寒暖差から原酒を守るために蔦に覆われたダンネージ式熟成庫など、随所に品質へのこだわりが見られました。

軽井沢蒸留所のウイスキーは、専門家から「砂糖漬けのレモンの皮」や「しっかりとした麦芽っぽさ、杉っぽく柑橘類のような甘さ」といった独特の風味として評されています。その品質は多くの受賞歴にも裏付けられており、閉鎖後の現在も、その伝説的な味わいは世界中のウイスキー愛好家を魅了し続けています。

軽井沢蒸留所は物理的には消滅しましたが、そこで育まれたウイスキー造りの技術、哲学、そして生み出された偉大な原酒は、今なおジャパニーズウイスキーの歴史に深く刻まれています。そして、その魂は新たな蒸留所へと受け継がれ、軽井沢地域でのウイスキー造りが新たな時代を迎えています。

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