近交係数

近交係数（きんこうけいすう）

近交係数（英語名：inbreeding coefficient）とは、ある個体の持つ遺伝子セットの中で、一対の相同遺伝子が共通の祖先から受け継がれた同一のコピーである確率を示す指標です。これは近親交配（近交）の度合いを数値化するために用いられます。遺伝子の機能や実際に個体に現れている形質とは無関係に、家系図などの遺伝的な関連性のみに基づいて計算される事前確率です。固定指数（fixation index）とも呼ばれ、F または f という記号で表されるため、「F値」と呼ばれることもあります。

親縁係数と血縁係数

近交係数が「ある個体の持つ遺伝子の状態」に焦点を当てるのに対し、親縁係数（coefficient of kinship, parentage, consanguinity、あるいは共祖係数 coancestry）は、任意の2個体間の遺伝的な関係の近さを示します。定義上、ある2個体の親縁係数は、その2個体が交配して生まれた子供の近交係数に等しくなります。文脈によってはこれらの用語が厳密に区別されずに使われることもあります。

これらと似た概念に血縁係数（coefficient of relationship、relatedness）があり、通常 r で表されます。血縁係数は、2個体間で共有される遺伝子の割合を示す指標であり、親縁係数Fから計算することが可能です。これは、血縁関係の近さを別の角度から捉えた尺度と言えます。

歴史的背景

近交係数の概念は、遺伝学者であるシューアル・ライトによって1921年に初めて導入されました。ただし、当時の定義は現在とは異なり、交配する配偶子間の遺伝的な相関として捉えられていました。その後、1948年にギュスターヴ・マレコによって、現在一般的に使われている「共通祖先に由来するホモ接合となる確率」という定義が確立されました。

近交係数の値

近交係数は0から1までの値をとります。理論上、全く血縁関係のない個体間の交配で生まれた子の近交係数は0ですが、実際にはどのような集団でも、長期的には共通祖先が存在するため、F値はごくわずかに0でない値を持つのが一般的です。しかし、人類のような大きな集団では、無関係な個体間のF値は非常に小さく無視できるレベルです。これに対し、実験動物や特定の栽培品種のように計画的に近親交配が繰り返されている集団では、比較的遠縁な個体間でもF値が無視できないほど大きくなることがあります。極端な近親交配を重ね、F値が1/2以上になった集団は近交系と呼ばれます。

計算方法の基本

近交係数の計算は、個体の家系図をたどり、共通祖先を見つけることから始まります。

共通祖先が1人の場合: 親がイトコ同士である場合など、特定の祖先を通じてのみ血縁がつながる関係では、近交係数Fは `1 / 2^(n+1)` という単純な式で計算できます。ここで `n` は、対象の個体の両親それぞれから共通祖先までの世代数を合計した値（親等の合計）です。

共通祖先が複数の場合: 両親が同じ兄弟姉妹など、共通祖先が複数いる場合は、それぞれの共通祖先から遺伝子が受け継がれる経路をたどり、各経路について計算した `1 / 2^(n+1)` の値を合計します。例えば、両親が同じ兄弟姉妹の場合、共通祖先は父と母の2人いるため、F値は単純な場合の2倍となります。

* 共通祖先のF値が0でない場合: さらに、共通祖先自体が近親交配の影響を受けており、その近交係数（FA）が0でない場合は、そのホモ接合型を受け継ぐ可能性を考慮して、計算結果に `(1 + FA)` を乗じる補正を行います。

これらの要素を総合すると、近交係数の計算は、すべての共通祖先Aについて、`(1 + FA) / 2^(その祖先から両親への世代数合計 + 1)` を計算し、それらを合計するという形になります。

遺伝構成への影響

近交係数Fが高い集団では、遺伝子のホモ接合体の割合が増加し、ヘテロ接合体の割合が減少します。集団遺伝学におけるハーディー・ワインベルクの法則と比較すると、対立遺伝子Aとaの頻度をそれぞれpとqとした場合、ホモ接合体AAとaaの頻度は本来の `p²` と `q²` から `pqF` ずつ増加し、ヘテロ接合体Aaの頻度は本来の `2pq` から `2pqF` 減少します（つまり `2pq(1-F)` となります）。

このホモ接合体の増加は、集団の遺伝的多様性を減少させる可能性があります。特に、通常はヘテロ接合体では影響が現れにくい劣性遺伝子が、ホモ接合体として発現するリスクが高まります。多くの遺伝病、特に重篤な遺伝病の多くは劣性遺伝によって引き起こされるため、近交係数が高いほど、これらの遺伝病の発症確率が増加する傾向が見られます。この発症確率の増加分は、ほぼF値に比例すると言われています。

近交係数は、個体の遺伝的な健全性や集団の遺伝的構造を評価する上で重要な指標であり、畜産、農作物育種、野生動物の保護など、様々な分野で利用されています。

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