遅発性ウイルス

遅発性ウイルスとは

遅発性ウイルス（ちはつせいウイルス、英語: slow virus）とは、感染してから症状が現れるまでの潜伏期間が非常に長いウイルスを指します。病状がゆっくりと進行する場合が多いことから、遅発ウイルスやスローウイルスとも呼ばれます。対義語としては、比較的短い期間で病気を引き起こす速発性ウイルス（英語: fast virus）があります。

主な病原体とその特徴

遅発性ウイルスが原因となる感染症は、遅発性ウイルス感染症と呼ばれます。ヒトにおいては、以下のようなウイルスが知られています。

亜急性硬化性全脳炎（SSPE）：麻疹ウイルスの変異株によって引き起こされる、小児期に麻疹に罹患した後、数年から十数年を経て発症する進行性の重篤な神経疾患です。
進行性多巣性白質脳症（PML）：多くの人が感染しているJCウイルスが、免疫力が低下した際に再活性化し、中枢神経系に脱髄病変を引き起こす疾患です。

これらの疾患では、なぜこれほど長い潜伏期間が存在するのか、そのメカニズムは異なります。例えば、SSPEではウイルスが神経細胞内に潜伏し、免疫応答から逃れるような形で持続感染していると考えられています。

動物においても、遅発性ウイルスの例が知られています。

ウマ伝染性貧血症ウイルス
ヒツジのマエディ・ビスナウイルス

ただし、病状が長い期間続くウイルス感染症であっても、例えば慢性肝炎を引き起こす肝炎ウイルスなどは、通常、遅発性ウイルスの定義には含まれません。この概念の定義には、依然として曖昧な部分が残されています。

医学系の文献では、潜伏期間が極めて長く、特に進行性の神経疾患の原因となるウイルスに限定してこの言葉が使われる傾向があります。一方、ウイルス学の分野では、長い潜伏期間を経て動物に神経疾患だけでなく、その他の重症な病気を引き起こすウイルスも含めて、より広く定義される傾向があります。

歴史的な背景

遅発性ウイルスという概念は、ウイルスの研究が進み始めた20世紀初頭から中期にかけて提唱され、発展してきました。

ウイルスの発見と定義
19世紀末に細菌よりはるかに小さい「濾過性」の病原体が発見され、20世紀初頭には「ウイルス」という言葉が一般化しました。当初のウイルスは、濾過できることや光学顕微鏡で見えないことなどが定義の主でした。動物への感染実験や細胞を用いた培養技術などが進み、病原体としてのウイルスに関する理解が深まっていきました。
概念の提唱と伝達性海綿状脳症
ヒツジの神経疾患であるスクレイピーの研究から、1954年にアイスランドの獣医師B. Sigurdssonが、スクレイピーやヒツジの他の慢性疾患の原因として、潜伏期間が長い「遅発性ウイルス」の存在を仮説として提唱しました。
1959年には、W. J. Hadlowがスクレイピーと、パプアニューギニアのクールー病というヒトの神経疾患に見られる脳の「海綿状」の病理学的変化が類似していることを指摘し、クールー病も感染性の病気ではないかという可能性を示唆しました。
当時、クールー病やクロイツフェルト・ヤコブ病といった原因不明の進行性神経難病が知られていましたが、病原体が特定できず、感染性かどうかも不明でした。
1966年、アメリカの医師D. C. Gajdusekらが、クールー病患者の脳組織をチンパンジーに接種したところ、約2年という長い潜伏期間を経てチンパンジーがクールー病様の症状を発症したことを報告しました。これは、ヒトの神経疾患が遅発性ウイルスによって引き起こされることを実験的に証明した最初の例とされ、この業績は後にノーベル生理学・医学賞の受賞対象となりました。
その後、1968年にはクロイツフェルト・ヤコブ病もチンパンジーへの伝達に成功し、これらの疾患は遅発性ウイルス感染症と考えられました。

プリオン病としての独立
クールー病やクロイツフェルト・ヤコブ病、スクレイピーといった疾患は、脳組織に特徴的な海綿状変性が認められることから、後に伝達性海綿状脳症（TSE）と総称されるようになりました。これらの病気の原因が、ウイルスではなく、異常な立体構造をとった感染性のタンパク質粒子「プリオン」であることがS. Prusinerらによって明らかになると、伝達性海綿状脳症はプリオン病という新しい疾患概念として確立され、遅発性ウイルスの範疇から独立しました。

SSPEの位置づけ
伝達性海綿状脳症の研究と並行して、亜急性硬化性全脳炎（SSPE）の研究も進められていました。1963年には、SSPE患者の脳組織から麻疹ウイルスが確認され、SSPEは麻疹ウイルス感染の後遺症であることが明らかになりました。潜伏期間が長いことから、SSPEの原因ウイルスも遅発性ウイルスの代表的な例とみなされた時期があり、神経難病とウイルスの関連性が盛んに議論されました。
しかし、プリオン病の独立や他のウイルスにおける潜伏感染メカニズムの解明が進むにつれて、遅発性ウイルスという用語は、ウイルス感染症の中でも特に潜伏期間が長い一部の特殊な病態を指すものとして使われることが多くなっています。

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