阿房列車

『阿房列車』：旅情よりも汽車そのものを愛した内田百閒の紀行 文学

作家・内田百閒（うちだひゃっけん）が、1950年から1955年にかけて発表した紀行文シリーズ『阿房列車』は、全15編からなり、『第一阿房列車』『第二阿房列車』『第三阿房列車』の三冊にまとめられています。その独特な題名は、中国秦代に建てられたという巨大な宮殿「阿房宮」に由来するとされます。

この作品は、「何かの用事のために旅をする」という一般的な概念とは一線を画します。百閒の旅の目的はただ一つ、鉄道に乗ることそのものにありました。特に、当時の花形であった蒸気機関車牽引の列車に心を惹かれた彼は、目的地での観光や長逗留を意図的に避け、時には終着駅からそのまま引き返すといった、移動そのものを純粋に楽しむスタイルを貫きました。しかも、その際には借金をしてでも優等列車、とりわけ一等車への乗車を強く望むという、常人離れしたこだわりを見せています。

北は青森から南は鹿児島まで、日本各地を鉄道で巡った旅の記録である「阿房列車」シリーズですが、単なる紀行文にとどまらない特徴があります。旅の本筋とは関係のない個人的な回想が挿入されたり、百閒作品特有の非現実的で奇妙な出来事が描写されたりすることも少なくありません。このため、百閒自身もこのシリーズを単なる紀行文としてではなく、小説に近いものと捉えていたようです。中でも、シリーズの幕開けを飾る「特別阿房列車」の冒頭にある「なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ」という一文は、その飄々とした旅のスタンスを端的に表しており、今日でも広く知られています。

シリーズの舞台となったのは、太平洋戦争終結から数年を経て、日本の鉄道網が戦前の水準を取り戻しつつあった1950年代前半です。作品には、三等級制が運用され、豪華な一等展望車が走り、寝台車には専属の係員（百閒は「ボイ」と呼ぶ）が乗務していた当時の鉄道の様子が生き生きと描かれています。一方で、ローカル線、例えば宇品線で見られた「ぼろぼろで、走り出すと崩れさうな汽車」といった、地方における未整備な状況も率直に描写されています。また、鉄道や宿泊施設のサービスや接客に対する百閒の辛口な評価も、随所にユーモラスに綴られています。

これらの旅には、国鉄職員であり百閒の門下生でもあった平山三郎が常に同行しています。百閒の健康状態を考慮しての同行でしたが、作中では百閒によって「ヒマラヤ山系」と名を変えられ、「無口で曖昧な話し方をする妙な小男」として描かれています。さらに、旅のたびに雨に見舞われることから「稀代の雨男」とも評されました。しかし、平山が百閒の没後に書き残した記録からは、『阿房列車』の内容には百閒による相当な文学的脚色が加えられていたことが明らかになっています。これは、松尾芭蕉の『おくのほそ道』における曾良の旅程日記との食い違いと同様、紀行文学における文学的表現の典型的な事例と言えるでしょう。他にも、作中に登場する人物の多くは仮名で描かれ、彼らとの間で交わされる会話もまた、現実と虚構の境界が曖昧なまま語られています。

『阿房列車』に収録された各編は、それぞれの旅先での出来事や心情が綴られています。例えば、「特別阿房列車」では大阪への旅費調達の苦労や東京駅での右往左往が、「区間阿房列車」では御殿場線での駅員とのやり取りがユーモラスに描かれます。九州への旅は特に多く、八代の旅館を百閒が気に入った様子や、水害に見舞われた状況からの奇跡的な帰京などが記されています。「雪中新潟阿房列車」では、清水トンネル通過や雪景色を楽しむための周到な準備が描かれる一方で、思わぬ大雪に出鼻をくじかれます。また、「春光山陽特別阿房列車」では、新設特急「かもめ」への辛辣な皮肉が印象的です。房総半島を巡る「房総鼻眼鏡」では、優等車のない三等車の旅や、劣悪な旅館からの脱出劇が語られます。四国への旅を描く「隧道の白百合」では旅先で体調を崩し、苦しい帰路を強いられます。シリーズ最終作となる「列車寝台の猿」では、一等寝台車のサービス低下に対する百閒の憤りが描かれています。

シリーズ完結後も、百閒は平山らとの鉄道旅行を続け、関連する随筆も発表しましたが、『阿房列車』の範疇には含まれません。北海道への旅を望みつつも、津軽海峡に浮遊する機雷を恐れて実現しなかったというエピソードも残されています。近年刊行された単行本の写真が、実際にはシリーズ完結後の旅行で撮影されたものである点も興味深い事実です。

『阿房列車』は、その独特な視点とユーモア、そして文学的深みから、後世の作家たちにも大きな影響を与えました。阿川弘之や宮脇俊三など、多くの鉄道紀行作家が百閒を自身の先達と位置づけ、本作にちなんだ作品を生み出しています。目的のない旅、移動そのものを愛でる姿勢、そしてユーモアと哀愁を交えた筆致は、『阿房列車』を日本の紀行文学史に燦然と輝くユニークな作品としています。

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