隠田の水車

葛飾北斎が描いた『冨嶽三十六景』は、富士山を様々な角度から描いた名作として知られています。その中に収録されている「隠田の水車」は、他の作品とは一線を画す独特の魅力を持っています。

この作品が描かれる舞台は、現在の東京都渋谷区神宮前、いわゆる原宿にあたる「隠田」です。江戸時代、この地は渋谷川（穏田川）が流れる農村地帯でした。絵には、渋谷川から引かれた水路を利用した水車小屋が中心に描かれています。水車小屋の周りでは、女性たちが洗い物をし、男性が粉ひきのために穀物を運び、子供たちが亀と遊んでいます。人々の日常の営みと、それを背景にした雄大な富士山の姿が、見事に調和しています。背景には、田植え前の水田が広がり、農村風景の息遣いが感じられます。

注目すべきは、北斎がこの地を画題に選んだ点です。隠田は、富士山を眺める名所として特に知られておらず、他の浮世絵作品にもほとんど登場しません。にもかかわらず、北斎はこの場所を選び、水車に強い関心を払って作品を描いています。これは、北斎が富士山よりも水車そのものに魅力を感じていたことを示唆しています。

絵に描かれた水車は、高台に設置され、水車の下を流れる水を板にあてて動かす「下掛け式水車」と考えられます。しかし、この方式では水車の上部に水をためることはありません。そのため、絵に描かれた水車の表現は、実際の水車の構造とは矛盾しているという指摘があります。

しかし、北斎は『北斎漫画』の中で、様々な種類の水車を精緻に観察し、記録を残しています。彼は水車の構造や水の動きについて深い理解を持っていたと考えられます。絵における水車の表現の矛盾は、北斎が絵画的な構成や面白さを優先し、意図的に現実と異なる表現を選んだ可能性が高いと言えるでしょう。正確な描写よりも、独自の芸術性を追求した結果と言えるのではないでしょうか。

さらに興味深いのは、この「隠田の水車」が、現代に再現されていることです。渋谷区立神宮前小学校には、この作品の水車を復元した模型が設置されています。北斎の絵画が、現代の人々にも親しまれ、地域に根付いていることを示す、象徴的な存在と言えるでしょう。

「隠田の水車」は、単なる風景画ではありません。北斎の観察眼、そして独創的な表現方法が凝縮された、貴重な作品です。水車という一見地味な主題を通して、北斎は人々の生活、そして自然の調和を見事に描き出しています。この作品は、単に富士山の景観を描いただけでなく、江戸時代の農村の生活様式や人々の暮らしぶりをリアルに表現している点も高く評価されています。北斎の多様な才能と、彼の作品に対する深い理解を深めるために、この作品をじっくりと鑑賞してみることをお勧めします。

参考文献

安村敏信「北斎 冨嶽三十六景の旅 天才絵師が描いた風景を歩く」『太陽の地図帖』 5巻、平凡社、2010年。
日野原健司『富嶽三十六景』岩波書店、2019年。
磯崎康彦「北斎の風景・風俗版画」『福島大学人間発達文化学類論集』 34巻、福島大学人間発達文化学類、2021年。
『版画芸術』 203巻、阿部出版、2024年。

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