黄村先生言行録

黄村先生言行録：太宰治の奇想天外な物語

太宰治の短編小説「黄村先生言行録」は、「黄村先生」シリーズの第一作として知られています。昭和17年（1942年）、故郷の重病の母を見舞うため家族と共に上京した太宰治によって、帰郷後の11月頃にかけて執筆されたと推定されています。

この作品は、独特の語り口で読者を惹きつけます。冒頭から「はじめに、黄村先生が山椒魚に凝って大損をした話をお知らせしましょう」と始まる文章は、黄村先生という人物の奇抜なキャラクターを予感させます。「黄村」という名前自体が「大損」を連想させる、という点も見逃せません。

物語は、語り手と黄村先生が井の頭公園の水族館を訪れた場面から始まります。そこで黄村先生は、水槽の中の山椒魚を目撃し、興奮のあまりけたたましい声を上げます。この出来事をきっかけに、黄村先生は突如として山椒魚研究に没頭し、やがて自称動物学者として振る舞うようになります。

黄村先生の長広舌な山椒魚談義は、石川千代松博士や佐々木忠次郎といった、当時既に故人となっていた著名な学者たちの研究を引用するなど、非常に詳細で専門的な内容を呈します。石川千代松博士は日本の進化論研究の第一人者、佐々木忠次郎博士は養蚕学、製糸学の権威として知られており、彼らが研究対象としていたのは昆虫や動物でした。黄村先生がこれら学者の業績を巧みに引用することで、彼の言動に何らかの真実味を持たせようとしている、という皮肉が感じられます。

物語は、山椒魚への執着がエスカレートしていく黄村先生の様子をユーモラスに描いています。彼の主張は、時に支離滅裂で、非論理的ですらあります。しかし、その奔放な言動の裏には、巨大な山椒魚という未知なるものへの憧憬、そして人間が普遍的に抱く「大きいものを見たい」という本能が垣間見えます。これは単なる奇行ではなく、人間の深層心理を探る太宰治の鋭い洞察が反映されていると言えるでしょう。

物語のクライマックスは、語り手が湯村温泉を訪れた際に訪れます。そこで語り手は、見世物小屋で「身の丈一丈、頭の幅三尺」という巨大な山椒魚を見せ物として宣伝しているのを耳にします。語り手は、それが黄村先生が探し求めていた伯耆国淀江村の大山椒魚だと確信し、黄村先生に電報を送ります。「ダイサンセウミツケタ」という簡潔な電報は、物語全体を象徴する、ユーモラスかつ象徴的な結びとなっています。

「黄村先生言行録」は、単なる滑稽な物語ではありません。山椒魚という一見取るに足らない存在を通して、人間の探求心、執着心、そして現実と妄想の境界線を曖昧にしながら、人間の深層心理を鋭くえぐり出しています。太宰治独特のユーモラスな語り口と、緻密な構成によって、読者に深い印象を残す傑作と言えるでしょう。この作品は、太宰治文学の奥深さ、そしてその独特の表現方法を理解する上で、重要な一作です。また、昭和初期の日本の社会風俗や学問界の様子を垣間見ることができる点も、この作品の魅力の一つと言えるでしょう。

もう一度検索