1938年の日本競馬

1938年（昭和13年）の日本競馬界は、統括組織である日本競馬会が体制の引き締めと運営の標準化を積極的に推し進めた一方、拡大する戦時下の影響を色濃く受けた一年でした。

年明けには、日本競馬会の理事長が松平頼寿氏から安田伊左衛門氏に交代。組織のトップが刷新されると同時に、様々な規程や事務手続きの統一が図られました。例えば、これまで競馬場ごとに異なっていた競馬番組の作成方法、競走馬が着用するゼッケンや帽子の規格、出馬表の様式、さらには勝馬を確定する際の信号に至るまで、細部にわたる標準化が各競馬場に通達されています。また、未出走馬が日本競馬会の競走に初めて出走する際には、会の専属調教師のもとで4ヶ月間の調教期間を経ることが義務付けられるなど、競走馬の管理に関するルールも厳格化されました。

騎手や調教師の資格制度においても変化が見られました。それまで地域によって実施されていた免許試験が、この年から全国で統一的に実施されるようになり、資格取得の基準が明確化されました。一方で、日本競馬会に所属する調教師が、公認競馬以外の地方競馬に関与することを厳しく禁じ、違反者には競馬への関与自体を禁止する罰則が設けられるなど、組織の規律維持が重視されました。また、優勝馬に贈られていた金杯が廃止され、代わりに金杯相当額が賞金に上乗せされるという変更も行われました。

この年の日本競馬は、進行中の日中戦争（支那事変）の影響を強く受けていました。政府が戦時特別税として入場税を課した際、日本競馬会は既存の入場料収入の中からこれを納付する対応をとりました。また、本来陸軍騎兵学校で行われる予定だった騎手講習会は、戦況のため実施場所が変更され、各競馬場での個別対応となりました。軍馬資源の確保と質の向上は喫緊の課題であり、日本競馬会は軍馬となる可能性のある馬（見込み馬）の鍛錬や馴致に必要な乗馬具購入費用として、約30万円もの「産馬助成金」を拠出し、関連団体へ寄付しています。

馬政計画自体も大きな転換期を迎えます。陸軍大臣から農林大臣に対し、馬匹の生産方針を、従来の乗用馬中心から、低身・広躯で持久力に優れ、軍事用途に不可欠な輓曳（ばんえい）馬を第一義とするよう求める要望書が提出されました。この方針転換に伴い、日本競馬会では、それまで行われていた速歩競走を将来的に廃止することを決定し、1945年までに完全に撤廃する方針を主務官庁に申請しました。これは、速歩馬が軍事用途において駈歩馬に比べて重要度が低いと判断されたためと考えられます。

新たな競走体系の整備も進みました。イギリスのクラシック競走を範とし、4歳馬（旧表記）を対象とした「5大競走」を整備する計画が発表され、その第一歩として、この年の秋には「阪神優駿牝馬」（現在の中央競馬における優駿牝馬、オークスに相当）と「京都農林省賞典四歳呼馬」（現在の菊花賞に相当）が創設され、それぞれ第1回競走が行われました。これらの競走は、後の日本競馬のクラシック競走体系の中核を担うことになります。また、帝室御賞典（現在の天皇賞）の出走資格がこの年から「5歳以上」に変更されました。

施設の面では、京都競馬場の馬見所などが新営工事を終え、近代的な設備が拡充されました。しかし、夏季には函館競馬場の厩舎で火災が発生し、速歩馬4頭が犠牲となる痛ましい事故も起きています。また、中山競馬場では夏季に第12回オリンピックの馬術競技候補選手の強化合宿が行われるなど、競馬場が国際的なスポーツイベントの準備にも利用されました。

戦禍が広がる中でも、競馬は国民娯楽としての役割も果たしており、靖国神社では支那事変で命を落とした軍馬の霊を慰める「軍馬祭」が初めて実施され、競馬場近くの陸軍病院で療養中の傷病兵には入場料が無料とされるなど、軍との連携や戦没者・傷病者への配慮も見られました。

年末には、農林省内に競馬研究委員会が設置され、今後の競馬のあり方に関する検討が始まりました。また、それまで3着までにしか与えられていなかった賞金が、翌年から4着・5着馬にも拡大されることが決定し、より多くの馬に関係者が報われる制度へと改善が進みました。

この年は、スゲヌマが東京優駿競走を制し、ヒサトモが秋の帝室御賞典に優勝するなど、多くの名馬が活躍しました。後の名馬セントライトをはじめ、中央競馬を支えることになる浜田光正氏、中尾正氏、福島勝氏、武邦彦氏といった人材が誕生した年でもあり、戦時下の困難な状況の中でも、日本競馬は未来へ繋がる礎を築いていたと言えるでしょう。

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