やりがい搾取

やりがい搾取とは

「やりがい搾取」とは、本来、労働者が受け取るべき正当な賃金や報酬、あるいは適切な労働時間管理がなされるべき場面で、「仕事への情熱」や「社会への貢献意欲」といった内面的な「やりがい」を過度に強調することにより、実質的な無償労働やサービス残業、あるいは低賃金労働を強いる社会的な構造や行為を指します。

この概念は、東京大学教授で教育社会学者の本田由紀氏によって提唱されました。2007年頃から本田氏の著作などを通じて広く社会に認知されるようになり、「ブラック企業」と呼ばれる、従業員に過酷な労働を強いる企業と密接に関連する問題として認識されています。働く上での「やりがい」と「報酬」は対立するものではなく、両立されるべきものであるという考え方が、「やりがい搾取」批判の根底にあります。

具体的な事例

アニメ制作業界

日本のアニメ業界では、長年にわたり、特に制作の現場で働く非正規雇用のアニメーターや制作進行担当者の労働環境の劣悪さや賃金の低さが問題視されています。作品を生み出す情熱やクリエイティブな活動への「やりがい」が非常に大きい分野である一方、長時間労働や低賃金が常態化し、心身の健康を損なうケースも少なくありません。2014年には、あるアニメ制作会社の若手社員が過労によるうつ病で自殺し、労働災害として認定された事例が報じられました。この事例では、月に600時間を超える労働時間にもかかわらず、残業手当が一切支払われていなかったとされており、業界構造に根差した「やりがい搾取」の象徴的な例として批判されました。業界全体で改善の必要性が叫ばれていますが、構造的な問題から抜本的な解決には至っていないのが現状です。

医師

医療現場の医師も、過重労働とそれに伴う労働時間管理の曖昧さが長年の課題でした。病院によっては、医師が行う時間外の業務の一部が、「自己研鑽」という名目で労働時間として適切に計上されない慣行が見られました。医師の仕事には、新しい医療技術や知識の習得が不可欠であり、これが「自己研鑽」として扱われやすい背景にあります。しかし、実際には病院の指示や業務遂行のために費やされた時間であっても、労働時間として認められず、費やした時間に見合う正当な対価が支払われない状態が続いていました。

厚生労働省は2019年、業務と自己研鑽の線引きに関する基準を示しましたが、その内容が抽象的であるため、病院側が都合よく解釈し、広範な業務を「自己研鑽」と見なすリスクが残ると指摘されています。特に大学病院では、医局の人事権を教授が握っているため、医局員が労働条件について声を上げにくい構造があります。

こうした状況に対し、2024年4月から医師の働き方改革が施行され、時間外労働には原則として年間960時間（月平均約80時間）の上限規制が導入されることになりました。

教師

公立学校の教員には、1971年制定の『公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法（給特法）』が適用されています。この法律は、教員の専門性や自律性を重んじ、管理職からの詳細な残業命令を想定しない代わりに、給与月額の4%を「教職調整額」として一律支給するというものです。制定当時は教員の残業が少なかった時代背景があり、この4%が「みなし残業代」のような役割を果たすと考えられていました。

しかし、制定以降、特に2000年代に入ると教員の業務量が飛躍的に増加し、学校現場の実態は法律の前提と大きく乖離しました。部活動指導や多様な事務作業などにより、教員は常態的に長時間労働を強いられています。にもかかわらず、『給特法』の下では残業命令が存在しないことになっているため、発生した長時間労働は「自発的なもの」と見なされ、原則として残業代は支払われません。近年行われた国の調査では、教員の平均残業時間は『給特法』の根拠となった当時の約8～10倍にも達していることが明らかになっています。このため、わずか4%の教職調整額で過大な労働を強いる『給特法』は、「4％定額働かせ放題」あるいは「やりがい搾取」の典型例として強い批判を受けています。

その他

大きなイベントにおけるボランティア募集でも、「やりがい搾取」との批判が起こることがあります。例えば、2020年東京オリンピック・パラリンピックの大会ボランティア募集では、交通費や宿泊費などが自己負担とされたことから、熱意や貢献意欲を強調する一方で、経済的な負担をボランティア側に負わせる構造が問題視されました。

国際的な類似現象

「やりがい搾取」と同様の現象は日本に限定されるものではありません。韓国では、特に若年層の間で低賃金や無償での労働が横行しており、これは「熱情ペイ（열정 페이）」と呼ばれ、社会問題となっています。

こうした「やりがい搾取」の問題は、働く人々の尊厳に関わるだけでなく、特定の業界や職種における人材の流出や後継者不足にも繋がりかねない深刻な課題であり、社会全体での意識改革や構造的な改善が求められています。

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