フローレンス・フォスター・ジェンキンス

フローレンス・フォスター・ジェンキンス：音痴歌手として愛された生涯

1868年、アメリカで生まれたフローレンス・フォスター・ジェンキンスは、裕福な家庭で育ち、幼少期から音楽教育を受けました。しかし、音楽留学を希望した彼女は、父親の反対により夢を断念。医師であったフランク・ジェンキンスと結婚し、フィラデルフィアで生活を始めます。

その後、父親の死を機に遺産を相続した彼女は、長年温めていた歌手への道を歩み始めます。1912年には、自ら設立したヴェルディ・クラブの活動資金を元に、初のリサイタルを開催。しかし、彼女の歌唱は音程やリズム感が著しく欠けており、限られた声域で、音も持続できません。彼女のレコードを聴けば、伴奏者が彼女のミスを必死にカバーしている様子がはっきりと分かります。

にもかかわらず、フローレンスは大変な人気を博しました。聴衆は彼女のずば抜けた音楽性ではなく、彼女のパフォーマンスから得られる楽しさに魅了されたのです。音楽批評家たちは辛辣な批評を繰り返しましたが、皮肉にもそれが大衆の好奇心を刺激し、彼女の知名度を上げました。

彼女は自分自身を名高いソプラノ歌手と同一レベルだと信じ、聴衆の笑い声すら、ライバルからの妨害だと勘違いするほどでした。しかし、自分の歌唱能力の欠如を完全に理解していなかったわけではなく、「皆さんが私が歌えないとおっしゃいますが、私が歌わなかったといった人はいませんわ」と述べたという逸話も残っています。彼女の歌唱力の低さは、梅毒の後遺症が原因であるという説も存在します。

彼女のレパートリーはモーツァルトやヴェルディ、R.シュトラウスといった著名作曲家のオペラ作品から、ブラームスの歌曲、そして彼女自身と伴奏者コズメ・マクムーンが作詞作曲した作品まで多岐に渡りました。華やかな衣装を身につけ、時には翼のついた豪華な衣装で登場し、アンコール曲として好んだ『カーネーション』では扇をひらひらさせ、髪に飾った花を客席に投げ入れるなど、パフォーマンスにも力を入れていました。

フローレンスは、少数の気に入った会場でのみ、厳選された聴衆の前で演奏することを好みました。ニューヨークのリッツ・カールトンホテルでの年次リサイタルは、彼女の熱心なファンクラブ会員や特別な招待客のみが出席できる、特別なイベントでした。そして、76歳を迎えた1944年、ついにカーネギーホールでの公演を実現。チケットは発売開始から数週間で完売しました。しかし、その約1ヶ月後、彼女はニューヨークのホテルで亡くなりました。

彼女のレコードは『人間の声の栄光』や『ハイ-Cの殺人者』といったタイトルでCD化されており、その独特の歌唱は今もなお多くの人々を魅了しています。また、彼女の人生は2015年のフランス映画『偉大なるマルグリット』や2016年のイギリス映画『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』といった作品として映画化され、広く知られるようになりました。彼女の生涯は、才能の欠如を圧倒的な自信とパフォーマンス力で克服した、異色の成功物語として語り継がれています。彼女の唯一無二の、そして多くの人を惹きつけたパフォーマンスは、音楽史に独特の足跡を残しました。

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