不能犯

不能犯とは

不能犯とは、刑法学における概念の一つで、行為者が犯罪の実現を意図して実行に着手したものの、その行為からは結果の発生が全く不可能である場合を指します。ドイツ刑法学では不能未遂とも呼ばれますが、日本では一般的に不能犯という用語が用いられます。

概説

不能犯は、犯罪的な結果の発生を意図しているにもかかわらず、その行為の性質上、結果を発生させることが不可能です。例えば、呪詛などの迷信犯（丑の刻参りなどの呪術で人を呪い殺そうとする行為）が挙げられます。他人を殺害する目的で呪術を行っても、呪術によって実際に人を殺すことは明らかに不可能であるため、不能犯となります。

不能犯は、結果発生の危険性がないため、未遂犯にもなりません。ラテン語には「Impotentia excusat legem（不能は法律の適用を免れさせる）」という法諺があります。

日本の現行刑法には、不能犯を不可罰とする明文規定はありません。しかし、判例も学説もその存在を認めています。例えば、硫黄粉末を飲食物に混ぜて毒殺しようとした事例では、少量の硫黄には致死性の毒性がないため、殺人については不能犯と判断され、傷害罪にとどまりました。

なお、イタリア刑法では、不能犯に対して保護処分に付すことができるとされています。

不能犯の本質

不能犯の本質については、不可罰的な未遂であるとする説もありますが、通説では、構成要件的結果をもたらす危険性を欠く行為であると解されています。

未遂犯との境界

未遂犯と不能犯の区別は、犯罪の成否を判断する上で非常に重要です。その区別の基準（不能犯が不可罰となる根拠）については、学説上で対立があります。学説は大きく分けて客観説と主観説に分類できます。

客観説

客観説は、行為の客観的な側面に着目して不能犯を判断する立場です。主な学説として、以下のものがあります。

相対的不能・絶対的不能説
事後的・客観的にみて、行為者の客体または手段の性質から、一般的に犯罪が実現しえない場合（絶対的不能）は不能犯、具体的な事情の下で犯罪が実現しえない場合（相対的不能）は未遂犯とする考え方です。フォイエルバッハ以来の学説で、ドイツ刑法学では「古い客観説」と呼ばれます。
しかし、絶対的不能と相対的不能の区別が曖昧であり、判断の対象の取り方によっては結論が逆転する可能性があるという批判があります。

具体的危険説
行為の時点で、行為者が特に認識していた事情と、一般人であれば認識し得た事情をもとに、客観的に事後的に犯罪実現の危険性の有無を判断します。結果が発生しうる状況が認められるときは未遂犯、そうでないときは不能犯であるとする学説です。リストが提唱し、ドイツ刑法学では「新しい客観説」と呼ばれています。
日本では、判例はかつて相対的不能・絶対的不能説を主流としていましたが、近年は（特に客体の不能について）具体的危険説を基調とするものへと推移しています。

印象説
一般人に対して、法秩序の侵害にあたるとの印象を与え、法秩序の実効性に対する意識に衝撃を与えているとみなされる行為があったとき、未遂犯にあたるとするドイツの学説です。適用の結果は、具体的危険説とほぼ同様とされています。

定型説
構成要件にあてはまるだけの定型性を持つかどうかを基準として、形式的に判断しようとする立場です。構成要件に該当すれば未遂、該当しなければ不能犯となります。小野清一郎や団藤重光らが主張しました。
適用の結果は具体的危険説とほぼ同様ですが、結果発生に対する危険性の認識について、基準が明確でないという批判があります。

客観的危険説
結果無価値論の立場から、行為時に存在したすべての事情を基礎に、結果発生の危険性を事後的・科学的に判断し、危険性が絶対的にない場合を不能犯とする学説です。

主観説

主観説は、行為者の主観的な側面に着目して不能犯を判断する立場です。主な学説として、以下のものがあります。

純主観説
犯罪的意思を持って行為を行った以上は、結果に関わらず未遂犯が成立するという学説です。純主観説では、不能犯が成立する余地がなくなりますが、迷信犯については例外的に犯罪は成立しないとしています。
ドイツでは有力な説であり、判例もこの説を採用しているとされています。しかし、行為者の危険性に偏重しており、迷信犯を例外とする点からも、理論の不合理さを認めるものと批判されています。

抽象的危険説（主観的危険説）
行為者が行為時に認識した事情をもとに、一般的・客観的に結果発生の恐れがあったかどうかを判断し、危険があれば未遂犯、危険がなければ不能犯とする学説です。行為者の認識を基礎としつつ、一般的見地から対象を絞り込もうとする特徴があります。
この学説に対しても、行為者の主観面に偏重しており、不能犯の問題は故意という主観的な問題ではなく、行為（実行行為の危険性）という客観的な問題であるという批判があります。

まとめ

不能犯は、犯罪の意図はあっても、結果発生が不可能であるため、不可罰とされる行為です。その判断基準については、客観説と主観説など様々な学説があり、未遂犯との境界線を明確にすることは、刑法を理解する上で重要なポイントとなります。

参考文献

大塚仁『刑法概説 総論 第4版』有斐閣、2008年。
高窪貞人、石川才顯、奈良俊夫、佐藤芳男『刑法総論』青林書院、1983年。
前田雅英『刑法総論講義 第5版』東京大学出版会、2011年。

関連項目

呪殺祈祷僧団
亀戸異臭事件

外部リンク

* 不適切な手段による殺人の企行と不能犯に関する判例の推移 (PDF) - 森住信人

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