法科学

法科学とは

法科学（Forensic Science）は、犯罪捜査をはじめとする法的な手続きにおいて、事件の解明や法廷での立証を支援するために用いられる応用科学の総称です。科学的手法を駆使して証拠を分析し、その結果が司法の原則に基づき「法廷で有効な証拠（admissible evidence）」として認められることを目指します。この分野には、伝統的な鑑識や警察による鑑定に加え、法医学、近年重要性が増しているデジタル分野などが含まれ、これらが系統的にまとめられています。

用語の由来と意味

「フォレンジック（Forensic）」という言葉は、ラテン語の「forēnsis」に由来し、「フォーラム（公共の広場）の」という意味を持ちます。古代ローマでは、告発は広場で行われ、被告と原告が聴衆の前で互いの主張を展開し、より説得力のある主張が判断を左右しました。この歴史的背景から、「フォレンジック」には現在、「法的に有効な」と「公開発表のための」という二つの意味が派生しています。これは現代の裁判で、陪審員や裁判員の前で証拠が詳細に示されることにつながります。

一方、「サイエンス（Science）」はラテン語の「知識」が語源であり、現代では科学的な手法を用いて体系的に知識を獲得する学問を指します。これら二つの言葉を組み合わせた「法科学」は、科学の手法やプロセスを利用して、法的な問題や事件を解決していくことを意味するようになりました。現在では、「フォレンジック・サイエンス」の代わりに単に「フォレンジクス（Forensics）」という短縮形も広く使われており、多くの辞書では「フォレンジクス」に法科学の意味も同時に記載されています。特にコンピュータ関連の分野では、「デジタル・フォレンジクス」のように「フォレンジクス」を後に付ける形が一般的です。

日本における訳語の変遷

日本国内では、かつて「犯罪科学」「裁判科学」「法廷科学」「司法科学」といった様々な訳語が使われていました。しかし、2005年に日本鑑識科学技術学会が名称を「日本法科学技術学会」に変更したことが、法科学という言葉の定着に大きな影響を与えました。これは、「鑑識」という言葉が警察活動の範囲に限定される印象を与える可能性があったため、より広く学術分野と活動内容を適切に表現し、世界的に一般的な「法科学」を採用したためです。
現在では、警察庁の科学警察研究所内にも法科学に関する各分野の研究室が設けられ、「法科学研修所」も設置されるなど、「法科学」は公的な機関においても定着しています。ただし、「法医～」といった医学系の分野は、法科学という用語が定着する以前から存在していたため、名称がそのままになっているケースもあります。これにより、古い翻訳システムでは「フォレンジック・～」が誤って「法医～」と翻訳される場合があるため注意が必要です。

概要

法科学は、証拠を基に犯罪事実を明らかにし、立証するための科学技術の体系と位置づけられています（理化学研究所の見解など）。多様な学問分野が関連するため「学際的科学」とも呼ばれ、その中心的な役割は、法廷で証拠能力が認められる「証拠物件科学」にあるとされます。近年、犯罪捜査において供述よりも物的証拠が重視される傾向が強まっており、その学術的な基盤となるのが法科学です。
犯罪事件だけでなく、環境問題、公害、医療過誤、サイバー犯罪など、多くの裁判で科学的根拠に基づく証拠が判決を左右するようになっています。しかし、裁判官や弁護士、検事といった法律家が、必ずしも高度な科学技術に関する専門知識を持つわけではありません。そのため、専門性の高い科学的証拠の内容を法廷が実質的に理解することは難しく、単に科学的であるという理由だけで客観的に正しいと判断し、判決の根拠とすることはできません。ここに、何をもって証拠能力のある科学とするかの判断が求められます。
このため、法廷で科学技術分野の専門家による鑑定結果や、その分野の専門家証人の証言を証拠として採用するかどうかの基準が必要とされています。アメリカでは、ドーバート基準などの基準が連邦法に取り入れられ、カナダやイギリスでもこれを参考にした基準が作られています。「法科学」と呼ばれるためには、こうした基準を満たすことが求められる場合があります。
一方、日本では伝統的に、警察の鑑識官や裁判所が指定した学識経験者による鑑定が行われ、その信頼性の判断には明確な共通基準がなく、裁判官の自由な心証に委ねられる側面が強い状況でした。しかし、2009年の裁判員制度導入により、法律の専門家ではない一般市民が限られた時間で判断する必要が生じたことから、裁判における証拠認定基準、すなわち「証拠法」の確立の必要性が指摘されています。
実際に専門家証人として裁判に参加した経験を持つ研究者からは、日本の司法界では科学の非専門家である法律家が科学を適切に利用するためのルールや、科学界と司法界の連携ネットワークが不足しており、法廷で非生産的な科学的議論が繰り返されている現状や、不確かな証拠が重視され、法的判断の科学的合理性が損なわれる事態が起こりうるという問題点が指摘され、両者の協働が強く求められています。
日本で法科学という言葉や概念が一般になじみが薄かったのは、欧米のように陪審員を納得させることを主な目的とする司法制度とは異なり、捜査や鑑定が主に警察や裁判所によって行われるという認識が強かったこと、そして、一般市民が裁判に関わる裁判員制度が2009年まで存在しなかったことなどが背景にあると考えられます。

歴史

法的な裁きのために事実を立証する試みは、古代から行われてきました。しかし、科学的な手法が本格的に導入されるのは中世以降です。
16世紀ヨーロッパでは、軍医や大学の外科医が、死因究明のため、暴力的な死やそれによる内臓の変化について科学的な研究を開始しました。イタリアの外科医たちは病死後の体変化を研究し、病理学の基礎を築きました。18世紀には、法医学や公衆衛生に関する専門書が登場します。
1773年には、遺体からヒ素を検出する手法が開発され、19世紀初頭には胃壁からの検出法も考案されました。1832年、イギリスのマーシュが開発したヒ素検出法が殺人事件の裁判で初めて司法に応用されます。
19世紀後半には、指紋判定、人類学の応用による身元特定、線条痕の比較など、新たな捜査技術が生まれました。これにより、捜査で得られた結論を科学的分析で検証するという概念が確立され、当初は警察技術、警察科学、犯罪科学などと呼ばれました。
1893年、オーストリアの検事ハンス・グロスが『刑事犯罪予審判事必携の書』を出版し、犯罪鑑識と裁判に科学的理論をもたらしました。彼は犯罪科学の祖と称されています。1910年には、エドモンド・ロカールがグロスの理論を応用した実践的な犯罪捜査法を体系化し、『犯罪科学全書』にまとめ、「フランスのシャーロック・ホームズ」と呼ばれました。この時代のフィクションであるシャーロック・ホームズの物語も、小さな証拠から事件の全体像を再現するという科学的捜査の手法を描写し、現代の法科学者たちに影響を与えています。
20世紀に入ると、専門の研究機関が設立されます。1923年にはロサンゼルスに、1932年にはFBIに法科学研究所が誕生。日本では1948年に科学捜査研究所（現在の科学警察研究所の前身）が設立されました。アメリカ法科学学会や日本法科学技術学会など、国内外で関連学会も組織されていきます。
現代法科学の概念の普及と発展に貢献した人物として、「法科学の母」と呼ばれるフランシス・グレスナー・リー（米国）が挙げられます。彼女は検視制度の改革に尽力し、ハーバード大学に犯罪科学を導入させ、捜査官向けの教育セミナーを多数開催しました。特に、犯罪現場を再現したミニチュア模型（ジオラマ）を教材として活用したことは有名で、その影響は現在も残っています。
1988年、イギリスでDNAフィンガープリント法を用いたDNA型鑑定が犯罪捜査に導入され、初の有罪判決事例が生まれました。また、コンピュータ犯罪の増加に伴い、デジタル・フォレンジクス分野も発展していきます。

主な分野

法科学は、分析対象や手法によって多岐にわたる専門分野に分かれています。代表的なものを以下に示します。

犯罪科学（Criminalistics）: 犯罪現場での鑑識活動において用いられる科学的手法の総称です。生体遺留物（DNA鑑定）、痕跡証拠（指紋、足跡、繊維、血痕、銃弾、薬物など）、道具痕などを分析します。
法医学: 医学的知見を法的な問題に応用する分野です。死因究明（法医病理学）、身元特定（法歯学、法人類学）、精神鑑定（司法精神医学）、体液分析（法血清学）、足跡分析（法足病学）などが含まれます。
法化学: 化学的手法を用いて、薬物、毒物、微細粒子、繊維、塗料、爆薬残渣、火災原因などを分析します（法毒性学を含む）。
デジタル・フォレンジクス: 電子機器やデジタルデータから情報を復元・分析する分野です。コンピュータ、モバイルデバイス、ネットワーク、データベースなどが対象となり、サイバー犯罪捜査に不可欠です（コンピューター・フォレンジクス、モバイルデバイス・フォレンジクス、ネットワーク・フォレンジクス、データベース・フォレンジクスなど）。
その他の分野: 法言語学（文書分析、音声分析）、法心理学（犯罪者プロファイリング、証言評価）、法昆虫学（死亡推定時刻の特定）、法会計学（経済犯罪の資金追跡）、法植物学、法工学、法地質学、法微生物学、法天文学、法地震学、法気象学、法陸水学、法地球物理学など、多種多様な専門分野が存在します。また、血痕パターン分析、耳紋分析、法文書鑑定、ビデオ解析、音響解析、芸術鑑定、航空写真分析、鑑識写真なども重要な手法として用いられます。

課題

法科学の運用にはいくつかの課題があります。

担当者の中立性: 日本では鑑定の多くが警察関連機関で行われるため、中立性や公正性に対する懸念があり、独立した機関での鑑定が望ましいとの意見があります。
担当者の質: 国外では、鑑識担当者の知識・資質不足が問題となり、過去の証拠が見直される事態も発生しており、担当者の専門性確保が重要です。
分析結果の解釈: 科学的に得られた結果の「解釈」が常に客観的であるとは限らず、その科学性について議論の余地が残る場合があります。特に、ポリグラフ検査や声紋鑑定など、法廷での証拠能力に関する判断基準が明確でない手法も存在します。
テクノロジーの進歩への対応: サイバー犯罪など、先端技術が関わる犯罪に対し、捜査側の専門知識不足が問題となる事例が発生しており、技術進歩への迅速な対応が求められます。
倫理上の懸念: DNA家系図サイトの利用など、新しい技術の応用において、プライバシー侵害や倫理的な問題が指摘されることがあります。技術の進歩と法律や倫理規範の間の乖離も課題です。
CSI効果: テレビドラマなどのメディアの影響で、法科学万能論や、実際には不可能または不確かな分析結果に対する過大な期待（CSI効果）が陪審員や裁判員に生じ、裁判の判断に影響を与える可能性が懸念されています。

メディアでの扱われ方

日本では「法科学」という名称はまだ一般的とは言えず、「科学捜査」という言葉が広く認知されています。テレビドラマ（例：「科捜研の女」）や小説、漫画などが、警察の科学捜査研究所と結びつけて、一般への普及に貢献しています。
一方、英語圏では「フォレンジック・サイエンス」という名称で、実際に起きた事件を科学的分析で追うドキュメンタリー番組や、法科学者が活躍するフィクションドラマ（例：「CSI:科学捜査班」、「BONES」）が数多く制作されており、法科学の概念が一般大衆に広く浸透しています。

著名な法科学者

ヘンリー・リー: 台湾出身の著名な法科学者。数多くの重要事件で捜査のコンサルティングや専門家証人として関与し、メディアにも頻繁に登場します。
キャシー・ライクス: 法人類学者。彼女の著作は、人気ドラマ「BONES -骨は語る-」の元ネタとなりました。国際戦犯法廷など、多くの裁判で専門家証言を行っています。
古賀慶: 元科学捜査研究所研究員であり、法科学をテーマにした漫画「トレース 科捜研法医研究員の追想」の作者です。

法科学は、科学技術の進歩と共に常に発展し続けており、現代社会における司法制度の信頼性を支える重要な基盤として、その重要性を増しています。

関連する組織や学会としては、日本法科学技術学会、アメリカ法科学学会、科学警察研究所、科学捜査研究所などがあります。

もう一度検索