イヒ

古代エジプトの神話に登場するイヒ（Ihy）は、特に楽器であるシストラムの演奏が生み出す恍惚とした状態、すなわちエクスタシーを象徴する存在として知られています。

彼の名前については、いくつかの異なる解釈が存在します。一つは、彼の神としての役割、つまりシストラムの演奏に深く関わっていることから、「シストラムの演奏者」という意味を持つとする説です。これは、音による精神的な高揚や喜びをもたらすという彼の神格と密接に関連しています。

もう一つの解釈は、イヒの名が「子牛」を意味するというものです。この説は、彼がしばしば母であるとされる、牝牛の姿や特質を持つ女神ハトホルとの繋がりを示唆しています。ハトホルは音楽、舞踊、愛、美、母性などを司る多産な女神であり、牛は古代エジプトにおいて豊穣や母性のシンボルとされたため、イヒを「子牛」と見なすことで、ハトホルの子としての彼の性格や、あるいは彼自身が持つある種の豊穣や生命力といった側面を表現していると考えられます。

イヒの家族構成についても、複数の神の名が挙げられています。最も頻繁に彼の母として言及されるのは女神ハトホルですが、文献によっては、イシス、セクメト、そしてネイトといった他の重要な女神が彼の母とされることもあります。特にイシスはホルス神の母として広く知られており、ホルスがイヒの父とされることが多い点を考えると、イシスが母として挙げられるのは自然な繋がりとも言えます。

彼の父に関しては、通常は隼の頭を持つ神ホルスであるとされています。ホルスは天空と王権の神であり、オシリスとイシスの息子として最も広く崇拝された神の一人です。しかし、時には太陽神ラーが代わりにイヒの父とされることもありました。これは、古代エジプトの神話体系において、ラーが他の神々の創造主や父として位置づけられることがあるためと考えられます。

イヒの姿は、しばしば子供として描写されました。典型的な表現としては、シストラムを持っている子供の姿が挙げられます。これは、彼の神格がシストラムの演奏によるエクスタシーと結びついていることを直接的に示しています。また、古代エジプト美術における子供の表現として一般的な、口に指をくわえた裸の子供の姿でも描かれることがあります。さらに、時には成人ではないものの、より成長した姿、すなわち若者のように髪を横に垂らし、王冠を被った姿で表現されることもありました。これらの描写は、イヒが永遠の若さや喜びを象徴する存在であった可能性を示唆しています。

イヒは特にデンデラで厚く崇拝されていました。デンデラ神殿はハトホルを主神とする壮大な神殿であり、ここではイヒが母ハトホル、そして父と見なされることの多いホルスと共に礼拝されていました。親子三柱が共に崇拝される場所は古代エジプトにおいて家族的な結合や連続性を象徴し、その神々の重要性を示すものでした。デンデラにおけるイヒの崇拝は、彼が単なる抽象的な象徴ではなく、具体的な信仰の対象であったことを物語っています。

このように、神イヒはシストラムによる音楽とそれに伴う高揚感を司る、子供や若者の姿で表現される神であり、ハトホルやホルスといった主要な神々と家族的な繋がりを持つ存在として、特にデンデラを中心に信仰されていた神格です。

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