イリュリオス

イリュリオス（古希: Ἰλλύριος）は、古代ギリシアの神話世界にその名を見ることができる人物です。彼は、現在のバルカン半島西部に位置する広大な地域であり、古代には多くの部族が居住していたイリュリア地方、そしてそこに住む人々であるイリュリア人の名の由来、すなわち名祖（エポニュモス）として語り伝えられています。

彼の系譜については、主に二つの異なる伝承が存在します。最も広く知られているのは、彼がテーバイの創設者であり王となったカドモスと、アレースとアプロディーテーの娘とされるハルモニアーとの間に生まれた末子であるとする説です。この系譜によれば、イリュリオスには、アウトノエー、イーノー、セメレー、アガウエー、そしてポリュドーロスという、それぞれが神話世界において重要な役割を果たした多くの兄姉がいました。

カドモスは、故郷フェニキアから姉エウローペーを捜し求めてギリシアに至り、神託に従って牛の足跡を追ってテーバイを建国した英雄です。彼はテーバイの王として統治した後、晩年に妻ハルモニアーとともにその地を去り、神々に変身させられる前に、現在のイリュリア地方にあたる地に赴いたとされています。イリュリオスは、このカドモスがイリュリア人の王となった後に、その地で生まれたと伝えられており、そのためその名が土地と人々の名称の起源となったと考えられています。

一方、古代ローマの歴史家アッピアノスは、これとは全く異なる系譜を伝えています。彼の著書『ローマ史』における記述によれば、イリュリオスは、ホメーロスの叙事詩『オデュッセイア』にも登場する隻眼の巨人キュクロプスであるポリュペーモスと、海の妖精（ネーレーイス）であるガラテイアとの間に生まれた子であるとされています。この説では、イリュリオスにはガラースとケレースという二人の兄弟がおり、彼ら三人がそれぞれ、イリュリア人、小アジアのガラテイア人、そしてケルト人という異なる民族集団の祖先となったと語られています。

ポリュペーモスとガラテイアの物語は、キュクロプスがニンフに一方的な恋をする悲劇的なエピソードとしてよく知られていますが、このアッピアノスの伝える系譜は、彼らの子孫が特定の民族集団の起源となったという、神話が持つ系譜学的な機能を強調するものです。

このように、イリュリオスという人物に関しては複数の伝承が存在し、その両親や兄弟構成は説によって異なります。しかし、いずれの伝承においても共通しているのは、彼が「イリュリア」という地理的な名称や、その地に居住した人々、すなわちイリュリア人と深いつながりを持ち、その名の起源と見なされている点です。神話における名祖としての役割は、古代の人々が自分たちの起源や土地の名称について、神話的な物語を通じて理解し、説明しようとした試みを反映していると言えるでしょう。

イリュリオスの物語は、ギリシア神話が単一の固定された体系ではなく、時代や地域、語り部によって異なる多様な伝承を含んでいたことを示しており、古代世界における人々の移動や文化交流、そして自分たちのアイデンティティを探求する営みの一端を垣間見せてくれます。特に、カドモスの系譜はテーバイ神話やフェニキアとのつながりを示唆し、ポリュペーモスとガラテイアの系譜はキュクロプス伝説や海の物語、さらには広範な民族の起源譚と結びついており、それぞれが異なる神話世界の一角を担っています。これらの伝承を通して、イリュリアという地名に託された古代の人々の想像力や歴史認識の片鱗を伺い知ることができるのです。

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