インセスチュエル

インセスチュエル（Incestuel）

「インセスチュエル」とは、フランスの精神科医であり精神分析家であるポール＝クロード・ラカミエ（Paul-Claude Racamier, 1980年から1995年にかけて活動）が提唱した、精神分析学における独特な概念です。これは、家族間の関係性の中に存在するある種の特殊な状況を指し示しています。

この概念の中心にあるのは、近親相姦が物理的な行為として実際に起こったかどうかに関わらず、その力学や影響が家族関係の「背景」に根ざしているかのような状態です。つまり、必ずしも現実的な近親相姦行為があったわけではないにもかかわらず、家族内の心理的な相互作用や力動において、近親相姦が示唆するような倒錯的、あるいは禁忌に触れるような雰囲気が支配的である状況を表現するものです。

インセスチュエルの概念は、人間の一般的な道徳観念や社会的なタブー、特に近親相姦の禁忌に対する問いを投げかける側面を持ち合わせています。ラカミエは、このような状況を表現するために、いくつかの特徴的なフレーズを用いて説明しています。

例えば、「道徳的な近親相姦」という表現は、行為そのものではなく、倫理的・心理的なレベルで近親相姦に類似した、あるいはその影響を受けた状態を指すと考えられます。また、「近親相姦をしていないのに近親相姦をしたかのような状況」という言葉は、実際の行為の不在を強調しつつ、その状況がもたらす心理的な重圧や歪みが、あたかも行為があった場合と同様の影響を個人や家族に与えていることを示唆しています。さらに、「精神的生活の一部となった近親相姦」という表現は、このような力動が個人の内面や精神構造に深く根ざし、その人の心理的なあり方そのものを規定するほどの影響力を持っていることを示しています。

インセスチュエルの概念は、単に一つの出来事を指すのではなく、特定の個人の精神構造や心理的な生活様式、そして家族という集団の組織的な特性、つまり家族システム全体のあり方を特徴づけるものとして捉えられています。

この概念は、特に分裂病や境界性パーソナリティ障害といった重篤な精神病理や、家族療法における複雑な力動を理解する上で、精神分析的な視点から貢献するものとして提唱されました。家族内に存在する隠された秘密、コミュニケーションの歪み（ダブルバインドなど）、あるいは世代間の病理の連鎖といった現象と関連付けられることもあります。

ラカミエはこの概念について、主著の一つである『L'Inceste et l'Incestuel』（1995年）などで詳しく論じています。インセスチュエルの理解は、家族の中に潜む見えない病理や、それが個人の精神に与える深刻な影響を探る上で、精神分析に新たな視点をもたらしました。

関連する概念としては、家族内のコミュニケーションの歪みを指す「ダブルバインド」や、ジャック・ラカンによる精神構造の区分である「現実界・象徴界・想像界」などが挙げられることがあります。これらの概念もまた、人間関係や精神病理の複雑さを理解するための手がかりとなります。

総じて、インセスチュエルは、実際の行為に還元できない、家族関係における特定の病理的な力動や雰囲気を捉え、それが個人と家族双方に与える影響を精神分析的に考察するための重要な概念と言えるでしょう。

• ---

参考文献:

Paul-Claude Racamier, L'Inceste et l'Incestuel, Collège de Psychanalyse, 1995 ISBN 2911474007.

もう一度検索