エステル (ヘンデル)

エステル（Esther）HWV 50

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルによって作曲されたオラトリオ『エステル』（HWV 50）は、彼の作品の中でも特別な位置を占めています。これは、ヘンデルが手掛けた初めての英語によるオラトリオであり、後の英語オラトリオの隆盛に繋がる重要な一歩となりました。作品の源泉は、旧約聖書の『エステル記』にあります。この物語は、古代ペルシア帝国を舞台に、ユダヤ人の絶滅を阻止した王妃エステルの勇気と知恵を描いています。

原型：仮面劇版（HWV 50a）

『エステル』の初期の形は、1718年頃に作曲された仮面劇（Masque）でした（HWV 50a）。ヘンデルがシャンドス公爵の宮廷作曲家として活動していた時期に生まれ、おそらく公爵邸で私的に上演されたと考えられています。『エイシスとガラテア』も同時期に作曲された同様の形態の作品です。この仮面劇は1幕6場構成で、クリュザンダーは『ハマンとモルデカイ』と題しています。作曲時期については、1720年とする説もありますが、現在は1718年頃とする見方が一般的です。

音楽的には、先行する作品、特に『ブロッケス受難曲』からの転用が多く見られます。劇の各場は合唱で締めくくられ、特にユダヤ人の心情を表現する力強い合唱は、その後のヘンデルのオラトリオ作品における合唱の重要性を予感させる要素となっています。

1732年版：オラトリオへの展開（HWV 50b）

仮面劇版が初めて公の場で上演されたのは、作曲から年月を経た1732年2月23日、ヘンデル47歳の誕生日でした。歌手バーナード・ゲイツによって行われたこの上演は成功を収め、続けて3月にも再演されました。この成功を受けて、当時の王族であったアン王女は、作品を劇場で完全な演技付きで上演することを希望しました。

しかし、当時のイギリスでは、聖書の物語を世俗的な劇場で演じることに対して教会が強い反対を示していました。特にロンドン司教エドムンド・ギブスンは、このような上演を禁止したと伝えられています。この上演禁止という状況が、ヘンデルに新たな道を開かせます。彼は既存の仮面劇版を拡大・改訂し、演技を伴わない演奏会形式の作品として再構成しました。これが3幕11場からなる1732年版（HWV 50b）、すなわち英語オラトリオ『エステル』の誕生です。

1732年5月2日、この改訂版はヘイマーケットの国王劇場で初演されました。演技がないにも関わらず、この演奏会形式での上演は大成功を収め、6回の上演を重ねました。この成功は、その後の『デボラ』『アタリア』、そして『メサイア』といった英語オラトリオ作品への道を切り拓くことになります。

1732年版の改訂にあたり、ヘンデルは12曲を新規に作曲・追加しましたが、その多くは過去の作品、『復活』『アン女王の誕生日のための頌歌』『司祭ザドク』『ブロッケス受難曲』などからの転用でした。管弦楽編成も仮面劇版より大規模化され、オーボエ、トランペット、ホルン、ハープといった楽器が加わり、豊かな響きを生み出しています。ヘンデルの生前、『エステル』は繰り返し再演され、晩年視力を失ってからも、1757年の上演に向けて合唱曲が追加され、助手ジョン・スミスが口述筆記を担当しました。

主な登場人物（1732年版）

1732年版の上演では、主要な役にイタリア人歌手が起用されましたが、イギリス人の歌手も参加しています。

アハシュエロス: ペルシア王（アルト・カストラート）
エステル: ユダヤ人女性、王妃（ソプラノ）
モルデカイ: エステルの養父（アルト）
ハマン: ペルシアの大臣（バス）
その他：イスラエル人女性たち、イスラエル人僧侶、ハブドナ、ペルシアの役人

あらすじ

物語は、ユダヤ人がペルシアの捕囚となっている時代を背景に展開します。

第1幕: 王妃となったエステルと、民の解放を願うモルデカイは喜びを歌います。しかし、大臣ハマンがユダヤ人全体を滅ぼす勅令を下したことを知り、喜びは深い嘆きへと変わります。
第2幕: モルデカイはエステルに窮状を伝え、王に慈悲を請うよう説得します。王に召されずに謁見すれば死刑となる厳しい法がありましたが、エステルは民のために命がけで王のもとへ向かいます。王の前に進み気絶したエステルは、王の優しさによって助け起こされ、命を救われます。エステルは王とハマンを自身の館での晩餐に招きます。イスラエル人たちはエステルに最後の希望を託します。
第3幕: 晩餐の席で、王はエステルに願いを尋ねます。エステルは、モルデカイがかつて王の命を救った忠臣であることを訴え、ユダヤ人絶滅の企てがハマンによる個人的な恨みによるものであることを暴きます。ハマンはエステルに許しを請いますが聞き入れられず、王によって死刑を宣告されます。対照的に、モルデカイは栄誉を与えられます。最後に、ユダヤ人たちの解放と喜びを歌う合唱で締めくくられます。

『エステル』は、ヘンデルの創造性が新しいジャンルを確立していく過程を示す、記念碑的な作品と言えます。

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