エルネスト・アンセルメ

エルネスト・アンセルメ：数学と音楽の狭間で輝いた巨匠

エルネスト・アレクサンドル・アンセルメ(1883年-1969年)は、20世紀を代表するスイスの指揮者であり、数学者、そして作曲家でした。その多才ぶりは、彼の人生と音楽活動に独特の色彩を与えています。

数学から音楽へ至る転身

レマン湖畔のヴヴェイに生まれたアンセルメは、幾何学者である父親の影響を受け、パリのソルボンヌ大学とパリ大学で数学を専攻しました。その後、ローザンヌ大学の数学教授として教鞭をとるなど、順風満帆な学者としての道を歩み始めます。しかし、音楽好きだった母親の影響もあり、彼は音楽への情熱を隠すことができませんでした。3歳年上の作曲家、エルネスト・ブロッホに師事し、音楽の研鑽を積む傍ら、自らも作曲活動を行い、ドビュッシーの『6つの古代碑銘』のオーケストラ編曲など、いくつかの作品を残しています。

数学者としての人生か、音楽家としての道か。葛藤するアンセルメは、1909年、決断を下すためベルリンを訪れ、当時著名な指揮者であったニキシュとワインガルトナーに助言を求めました。この経験が、彼を指揮者の道へと導いたのです。

スイス・ロマンド管弦楽団の創設と世界的成功

1910年、モントルーでのデビューコンサートを皮切りに、アンセルメは指揮者としてのキャリアをスタートさせます。その才能は瞬く間に認められ、モントルーのクア・ザールで指揮を務めるようになりました。

運命的な出会いは、モントルーのカフェで起こりました。それは、後の20世紀音楽史を語る上で欠かせない作曲家、イーゴリ・ストラヴィンスキーとの出会いでした。ストラヴィンスキーの紹介により、アンセルメは第一次世界大戦下のスイスでディアギレフ率いるロシア・バレエ団（バレエ・リュス）と関わることになります。ディアギレフはモントゥーの後任を探しており、アンセルメは1915年のジュネーヴ公演の指揮者を任命されました。アメリカ公演にも帯同し、アンセルメはバレエ・リュスの専属指揮者となったのです。

バレエ・リュスでの活動は、アンセルメの国際的な名声を確立するきっかけとなりました。プロコフィエフの『道化師』、ファリャの『三角帽子』、サティの『パラード』など、数々のバレエ作品を初演しました。さらに、ストラヴィンスキー作品のスイス初演や、マルタン、オネゲルといったスイスの作曲家たちの作品も多く取り上げ、その活動の中心となったのが、1918年に彼が創設したスイス・ロマンド管弦楽団でした。

財政難に苦しんだ時期もありましたが、1938年にローザンヌのスイス・ロマンド放送のオーケストラを吸収合併し、安定した財政基盤を確立しました。ブルーノ・ワルター、フルトヴェングラー、カール・シューリヒトといった巨匠を客演に迎え、オーケストラの知名度は飛躍的に向上しました。特にシューリヒトとは終戦前からの親交があり、アンセルメは戦時中に彼をスイスに招き入れ、亡命を手助けしています。戦後、シューリヒトはこのオーケストラでの客演を主な活動の場としていました。

デッカ録音とステレオ時代の貢献

戦後、アンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団はイギリスのレコード会社デッカと専属契約を結び、膨大な録音を行いました。ラヴェル、ルーセル、ストラヴィンスキーといった親交の深い作曲家の作品から、ベートーヴェン、ブラームス、ハイドンといった古典派の作品まで、幅広いレパートリーを網羅した高水準の演奏は世界中を魅了しました。ジュネーヴのヴィクトリア・ホールでの録音は、レストランの厨房がコントロールルームとして使われるなど、ユニークなエピソードも残されています。また、数学者としての知識を生かし、デッカのステレオ録音にも大きく貢献しました。1954年に行われたリムスキー＝コルサコフの『アンタール』の録音は、デッカ初のステレオ実用化試験録音となりました。

デッカによる録音はアンセルメの世界的成功の大きな要因となります。サン＝サーンスの『オルガン付』交響曲や、オネゲルの『ダヴィデ王』などは当時ベストセラーとなりました。ストラヴィンスキーの3大バレエをはじめ、彼らが世に紹介し、広めてきた音楽とその演奏が多くの人々に支持されたことによって、アンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団は第一級のオーケストラへと成長しました。

作曲家、そして音楽思想家

アンセルメ自身も作曲家として活動し、『人間の知覚における音楽の原理』といった音楽論も著しました。この著作では、シェーンベルクの十二音音楽を批判的に論じています。

ストラヴィンスキーとの複雑な関係

ストラヴィンスキーとは長年の友人でしたが、1937年の『カルタ遊び』の上演における意見の相違から、10年以上にわたる確執が生まれました。ストラヴィンスキーが十二音技法に傾倒したことで、二人の関係は修復不可能なまでに悪化しました。1966年のニューヨークでのストラヴィンスキー・フェスティバルで再会を望んだアンセルメでしたが、ストラヴィンスキーは最後まで姿を現しませんでした。

後世への影響

アンセルメはスイス・ロマンド管弦楽団に半世紀にわたり君臨し、1964年にはNHK交響楽団を指揮して初来日を果たしました。1967年に常任指揮者を引退し、後任にはパウル・クレツキを指名しました。1969年、ジュネーヴで死去しました。その功績は、スイス・ロマンド管弦楽団という世界的なオーケストラの創設と育成、そして数々の名録音を通して、現在も世界中の音楽愛好家に受け継がれています。彼の多才な才能と複雑な人生は、これからも多くの人々を魅了し続けることでしょう。

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