エロス+虐殺

エロス+虐殺

1970年3月14日に劇場公開された日本映画『エロス+虐殺』は、日本ヌーヴェルヴァーグを代表する監督の一人、吉田喜重の手による重要な作品です。現代映画社が製作し、日本アート・シアター・ギルド（ATG）の配給により世に問われた本作は、全編が白黒のシネマスコープで撮影されており、その映像美と共に観客に強い印象を与えました。吉田監督自身のキャリアにおいても、特に評価の高い代表作として位置づけられています。

物語はフィクションとして描かれていますが、根底には実際に起きた「日蔭茶屋事件」という歴史的な出来事が深く関わっています。大正時代を舞台に、当時の日本の社会運動や思想潮流、特にアナーキズムの文脈で語られることの多い主要な人物たち、すなわち大杉栄、伊藤野枝、辻潤といった実在のアナキストや作家をモデルにした登場人物たちが登場し、彼らの複雑な関係性、思想、そして激しい愛憎が織りなす人間ドラマが展開されます。これらの人物を演じたのは、大杉栄役に細川俊之、伊藤野枝役に岡田茉莉子（同時に伊藤野枝に瓜二つの架空の人物「伊藤魔子」も一人二役で演じる）、辻潤役に高橋悦史といった実力派俳優陣です。

本作の公開を巡っては、一つの大きな出来事がありました。映画に登場する人物の一人、正岡逸子という役柄は、実在の人物である神近市子をモデルにしたと推測される設定となっていました。映画の内容に対して、存命だった神近市子氏は、自身の名誉権およびプライバシー権が侵害されているとして、映画の上映差し止めを求める訴訟を起こしたのです。しかし、裁判所は、当該事実関係が既に広く世に知られている「周知の事実」であるとの判断を下し、神近氏の訴えを棄却しました。この法廷闘争は、表現の自由と個人の権利、そして歴史的事実の取り扱いを巡る問題として、公開当時の社会に波紋を投げかけることとなりました。

映画の製作には、吉田監督自身が山田正弘と共に脚本を手掛けたほか、撮影を長谷川元吉、音楽を一柳慧、美術を石井強司が担当するなど、当時の気鋭のスタッフが集結しています。彼らの手によって生み出された映像、音響、空間は、大正という時代の空気感と登場人物たちの内面の葛藤を見事に表現しています。特に、一柳慧による音楽は、前衛的でありながらも物語世界に深く寄り添い、映画独特のムードを醸成する上で重要な役割を果たしています。

『エロス+虐殺』は単なる歴史ドラマにとどまらず、思想と行動、公的な生と私的な生、そしてエロスとタナトスといった対立する概念が交錯する重層的な作品として、公開から半世紀以上を経た現在もなお、多くの映画ファンや研究者によって論じられています。アナーキズムや甘粕事件といった関連する歴史的・思想的な背景と共に理解することで、本作の深みはさらに増すでしょう。この作品は、吉田喜重監督の作家性を示すと同時に、日本の映画史、特に1960年代後半から70年代にかけてのATGを中心とした革新的な映画製作の流れにおいても、特筆すべき位置を占める傑作と言えます。

キャストには上記の他、楠侑子（正岡逸子役）、八木昌子（堀保子役）、稲野和子（平賀哀鳥役）、松枝錦治（堺利彦役）などが名を連ね、複雑な人間模様を演じ切っています。

本作が引き起こした社会的な議論や法廷闘争、そしてその芸術性の高さは、『エロス+虐殺』が単なる映画作品ではなく、公開された時代との対話を生んだ文化的な事象であったことを物語っています。吉田喜重監督の冷徹かつ情熱的な視点を通して描かれる登場人物たちの生と死、愛と暴力は、観る者に強い衝撃と深い考察を促すでしょう。

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