エーリッヒ・イトル・カーン

エーリッヒ・イトル・カーン（Erich Itor Kahn, 1905年7月23日 - 1956年3月5日）は、ドイツ出身の作曲家およびピアニストです。

生涯と初期のキャリア

1905年、当時ヘッセン大公国（現ドイツ、ヘッセン州）の一部であったリムバッハに生まれました。父レオポルドは数学教師であり、同時にシナゴーク（ユダヤ教会）の先詠者でもありました。カーンはフランクフルトのホッホ・シューレにて、ピアノと作曲を学び、1928年に同校を卒業しています。卒業後はフランクフルトのラジオ放送音楽部に所属し、ピアニスト、ハープ奏者、そして作曲家として精力的に活動を展開しました。

亡命とルネ・レイボヴィッツとの交流

1933年にナチスが政権を掌握すると、ユダヤ系であったカーンは迫害を逃れるため、まずフランスのパリへと亡命します。パリ滞在中、彼は後に十二音音楽の重要な提唱者となる作曲家ルネ・レイボヴィッツ（1913-1976）と親交を結びました。カーンは自身が所持していたアルノルト・シェーンベルクをはじめとする十二音技法の作曲家たちの楽譜を、1937年から38年頃にかけてレイボヴィッツに提示しました。レイボヴィッツはこれらの貴重な資料を通じ、独力で十二音技法を深く理解し、その技法を習得しました。1939年、レイボヴィッツは自身の初期作品である『ピアノソナタ 作品1』を完成させ、カーンに献呈しています。この出来事は、レイボヴィッツが本格的に作曲家としての道を歩み始める上で、重要な契機となったとされています。

カーンはまた、レイボヴィッツが指揮者としてデビューし、1940年代にかけて十二音技法の普及・啓蒙活動を展開していく過程を知る数少ない人物の一人でした。しかし、その後フランスの情勢にも不安を感じたカーンは、アメリカ合衆国への再度の亡命を決意します。なお、彼がシェーンベルクの作品を世界初演したとする一部の情報は正確ではないとされています。

アメリカでの活動と晩年

アメリカに亡命後も、カーンは室内楽ピアニストとして活動を本格化させました。特に、著名なチェンバロ奏者ラルフ・カークパトリックのために作曲された作品の上演なども行っています。しかし、1956年3月5日、ニューヨークにて50歳で急逝しました。彼の突然の死は、レイボヴィッツの初期キャリア、特に十二音技法の習得に至る経緯を知る人物がヨーロッパからほぼいなくなることを意味し、後年、ラルース音楽事典に記載されたレイボヴィッツ自身の経歴記述が広く信じられるなど、研究者にとって彼の前史の解明を困難にさせる一因となりました。

研究と再評価

長らくカーンの音楽に対する本格的な研究は限られていましたが、彼の自筆譜がドイツへ移管されて以降、徐々に進展が見られるようになりました。作品の録音も長らく入手が困難でしたが、近年になってピアノ作品集や室内楽作品集のCDがリリースされています。今日では、単なる演奏家としてだけでなく、特にルネ・レイボヴィッツへの十二音技法導入における重要な触媒としての役割が再評価される動きが進んでいます。

作品

カーンの自筆譜は現在、フランクフルトに移管され保管されています。彼の作品には、オーケストラ、室内楽、歌曲、ピアノ曲など多岐にわたります。代表的な作品として、ユダヤ人犠牲者を追悼するために収容所からの脱出後に書かれたとされるチェロとピアノのための『ユダヤ人犠牲者のための悲歌（Nenia Judaeis Qui Hac Aetate Perierunt）』(1940-41) や、ピアノのための『チャッコーナ・デイ・テンピ・ディ・グエッラ（戦時のチャッコーナ）』（1943）、弦楽四重奏曲（1953）などがあります。ルネ・レイボヴィッツは、カーンのヴィオラとピアノのための組曲のピアノパートをオーケストレーションしています。

彼の生涯や作品に関するドキュメンタリー映画が1993年に制作されたほか、いくつかの参考文献やディスコグラフィーが存在し、その音楽的遺産の再発見が進められています。

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