オデュッセウスに杯を差し出すキルケ

『オデュッセウスに杯を差し出すキルケ』：魔女と英雄の出会う瞬間

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスによる1891年の油彩画『オデュッセウスに杯を差し出すキルケ (Circe Offering the Cup to Ulysses)』は、古代ギリシャの叙事詩『オデュッセイア』の劇的な場面を描いた作品です。この絵画は、ウォーターハウスが前年に経験した父の死とイタリア旅行の後、古代神話の世界に惹かれ制作された初期の作品の一つであり、ロンドンのニュー・ギャラリーに出展された彼の最初の作品としても知られています。現在、イギリスのオールダム・ギャラリーに所蔵されていますが、残念ながら一般公開はされていません。

オデュッセイアにおけるキルケとオデュッセウス

『オデュッセイア』によれば、トロイア戦争からの帰還途上、オデュッセウスは部下たちと共にアイアイエ島に漂着します。島の支配者である魔女キルケは、オデュッセウスの部下たちを魔法で豚に変えてしまいます。しかし、オデュッセウスはヘルメス神から授かった薬草モーリュのおかげでキルケの魔法から身を守り、逆に彼女に立ち向かい、部下たちを元の姿に戻すことに成功します。その後、オデュッセウスはキルケのもてなしを受け、1年間彼女と共に過ごしますが、旅立つ際にはキルケから航海の助言を受けます。

絵画における表現

ウォーターハウスの絵画では、キルケは獅子の彫刻が施された玉座に鎮座し、左手に魔法の杖、右手に毒を盛った杯をオデュッセウスに差し出しています。背後の大きな円形の鏡には、キルケの館を訪れたオデュッセウスの姿が映っており、キルケが毒を飲ませようとしている相手がオデュッセウスであることがわかります。鏡には、豚の姿に変えられたオデュッセウスの船員たちも映っており、絵画全体に緊張感が漂っています。鏡、香炉の煙、床に散らばるスミレの花、そしてヒキガエルといった象徴的なアイテムが、キルケの魔法の世界観を表現しています。

構図の中心は、玉座に座るキルケです。彼女の玉座はオデュッセウスより高く位置しており、キルケのオデュッセウスに対する優位性を示唆しています。ウォーターハウスは、キルケを半透明の青いペプロスをまとった魅力的な女性として描き、理想化することで、彼女の危険な魔力と美しさを強調しています。

鏡の役割

絵画における鏡は、単なる反射面以上の役割を果たしています。円形の鏡は、キルケが太陽神ヘリオスの娘であることを暗示するだけでなく、キルケの視線の先、つまり絵画の外側の空間まで表現する役割を担っています。鏡に映し出されたオデュッセウスは、まさにキルケの視線の先にいる鑑賞者自身と同一視される効果を生み出します。この鏡の使い方は、ヤン・ファン・エイクの『アルノルフィーニ夫妻の肖像』やベラスケスの『ラス・メニーナス』といった名画と共通点があり、特にベラスケス作品との類似性は、鏡の反射を利用して空間を構築し、鑑賞者と絵画の世界を結びつける点で注目されています。興味深いことに、鏡に映るオデュッセウスの姿は、ウォーターハウス自身に似ていると言われています。

オデュッセウスはキルケに近づきつつも、警戒心を抱いている様子がうかがえます。彼が剣の柄を握っていることは、キルケの策略が必ずしも成功するとは限らないことを暗示しています。キルケの背後にある鏡は、彼女の優位性が一時的なものであることを示唆しており、絵画全体の緊張感を高めています。

ウォーターハウスとキルケ

ウォーターハウスは、この作品以降もキルケを題材とした作品を多く制作しています。翌年には、オウィディウスの物語に基づいた『嫉妬に燃えるキルケ』を描いています。これらの作品は、キルケのファム・ファタール的な側面、つまり女性による男性への危険性へのウォーターハウスの関心を反映していると考えられます。特に同年の『オデュッセウスとセイレン』では、このテーマがより顕著に描かれています。こうしたウォーターハウスの作品傾向から、キルケはヴィクトリア朝時代の社会状況や女性に対する不安や恐怖のメタファーとして解釈されることもあります。ウォーターハウスが神秘的な題材に強い関心を持っていたことは、『神託伺い』や『魔法円』といった彼の以前の作品からも明らかです。

作品の来歴

この絵画は、1952年にオールダムの著名な活動家マージョリー・リーズによってオールダム美術館（現在のオールダム・ギャラリーの前身）に寄贈されました。彼女の父チャールズ・リーズも画家であり、1888年の美術館設立に際して多くの作品を寄贈していました。本作品は、チャールズ・リーズが1892年のオールダム春季展示会でウォーターハウス本人から購入したものです。現在、オールダム・ギャラリーの最も価値のある作品の一つとして大切にされています。

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