キリクス

ギリシア神話に登場するキリクス（古希: Κίλιξ, Kilix）は、複数の異なる系譜が伝えられている人物です。最も広く知られる説によれば、彼は古代フェニキアの王アゲーノールとその妻テーレパッサの息子として生まれました。この説における彼の兄弟には、テーバイの建国者として名高いカドモス、やはり地名に関わるポイニクス、そして後に主神ゼウスによって魅了され、拐われることになる美貌の妹エウローペーがいました。また、別の伝承では、キリクスはポイニクスの息子で、タソスやテーベーと兄弟であったとも語られています。

キリクスの物語は、主に妹エウローペーの失踪に端を発します。牡牛に変身したゼウスがエウローペーを遠くクレータ島へ連れ去った後、父アゲーノールは息子たち、すなわちカドモス、ポイニクス、そしてキリクスにエウローペーを捜し出し、連れ戻すよう厳命しました。もし妹を見つけられなければ、故郷には戻るなと命じられたとも言われています。

父の命を受けたキリクスは、兄弟たちと共に広範囲にわたる捜索の旅に出ます。しかし、ゼウスの企てによって遠くへ連れ去られたエウローペーを見つけ出すことは叶いませんでした。故郷への帰還を断念したキリクスは、旅の末に小アジア南部の地へと辿り着き、そこに定住することを決意します。当時、この地は「ヒュパカイオイ」と呼ばれていましたが、キリクスがそこに住み着いたことから、彼の名にちなんで「キリキア」と呼ばれるようになったと伝えられています。このエピソードは、キリクスがこの地域の伝説的な開祖であり、その名が重要な地理的名称の由来となったことを示しています。

キリキアに根を下ろした後、キリクスはその地で勢力を築いたと考えられています。神話には、彼が隣接するリュキアの人々と戦争を行ったという記述も見られます。この戦いにおいて、彼はトロイア戦争で活躍する英雄サルペードーンと協力して戦ったと伝えられています。サルペードーンはリュキア王家の人物（ゼウスの子ともされる）であり、その共闘の背景には、キリクスがサルペードーンに対してリュキアの一部を与えるという約束があったとされています。この記述は、キリクスが単なる漂流者ではなく、新たな土地で指導者となり、周辺勢力との関係を築いていたことを示唆しています。

また、先述の系譜の話に戻ると、キリクスがタソスの父であるとする説は、彼のもう一つの系譜における兄弟とされるタソスを、ここでは彼の子としている点で興味深い異伝です。これらの複数の伝承は、キリクスという人物が古代ギリシア世界において、特に小アジア南部の歴史や地名と結びつく重要な存在として認識されていたことを物語っています。彼の物語は、失踪した家族の捜索という個人的な悲劇から始まり、新たな土地への移住と、その地を自らの名で永遠に刻むという、壮大な地名由来神話へと繋がっているのです。

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