クレートーン

クレートーン（古希: Κρήθων, Krethōn）は、古代ギリシアの神話的世界に登場する人物です。長母音を省略してクレトンと表記されることもあります。彼は、メッセニア地方に位置していた古都パライの支配者であるディオクレース王の息子として生まれました。

クレートーンは、オルティロコスという名の双子の兄弟を持っていました。双子である彼らは非常に近しい絆で結ばれていたと考えられます。また、アンティクレイアという妹もいました。ディオクレース王の血を引く王子として、クレートーンとオルティロコスは恵まれた環境で育ち、特に軍事的な技術や知識を深く身につけていたと言われています。

物語の舞台は、アカイア（ギリシア）勢がトロイアに対して大規模な遠征軍を組織していた時代です。メッセニア地方は、老賢者として知られるネストールに率いられて、この名だたる遠征に参加しました。クレートーンとオルティロコスは、メッセニア軍の一翼を担う武将として、父ディオクレース王の命を受け、あるいは共に、はるか異国の地トロイアへと船出したのです。彼らはその軍事的才能を活かし、戦場で勇敢に戦いました。

しかし、英雄たちの栄光と悲劇が織りなされるトロイアの戦場は、容赦のない場所でした。多くの名だたる戦士たちが倒れていったように、クレートーンと彼の双子の兄弟オルティロコスもまた、そこで運命の時を迎えます。彼らを討ち取ったのは、トロイア側の屈指の英雄であり、女神アプロディーテーの子でもあるアイネイアースでした。後にローマ建国伝説へと繋がるアイネイアースの圧倒的な力の前で、メッセニアの双子の王子はその生を終えたのです。

紀元前8世紀頃に編纂されたとされるホメーロスの偉大な叙事詩『イリアス』は、このトロイア戦争を克明に描き出しており、クレートーンとオルティロコスの最期についても言及しています。ホメーロスは、彼らの死を非常に印象的で力強い二つの比喩を用いて表現しました。一つ目の比喩は、人間の家畜小屋に忍び込み家畜を奪おうとしたために、怒り狂った人間に追い詰められ殺される二頭のライオンに彼らを喩えるものです。この描写は、敵陣深くまで果敢に攻め入ったものの、より強力な力（アイネイアース）によって討たれてしまう彼らの姿と、野生の力強さを持つも人間の策略や力に屈するライオンの姿を重ね合わせています。彼らの勇敢でありながらも報われない最期を象徴しているかのようです。

もう一つの比喩は、山の上にそびえ立っていた二本のモミの大木が、強い風や人間の手によって切り倒される様に、彼らが戦場で倒れ伏した様子を喩えるものです。モミの木は、その高さと丈夫さから、力強く威厳のある存在の象徴と見なされます。それが無残にも倒れる様は、クレートーンとオルティロコスがどれほど見事で強力な戦士であったかを示唆すると同時に、彼らの死がもたらした喪失感の大きさを物語っています。この比喩は、個人の力量がいかに優れていても、戦場の流れや運命の前では抗いがたいものがあるという悲劇性を強調しています。

ホメーロスが彼らの死にこれらの具体的な比喩を用いたことは、『イリアス』における彼らの存在感が決して小さくなかったことを示唆しています。クレートーンとオルティロコスの物語は、トロイア戦争という巨大な悲劇の只中で、多くの若者たちが故郷から遠く離れて命を落とした現実を映し出しています。特に双子の兄弟が共に戦い、そして共に倒れたという事実は、彼らの運命に特別な哀切を添えています。

クレートーンに関する情報は、主にホメーロスの『イリアス』や、紀行家パウサニアスによる『ギリシア記』といった古代の文献を通じて現代に伝えられています。これらの文献は、古代ギリシアの人々が神話や歴史上の人物にどのような価値を見出し、どのように語り継いだかを知る上で貴重な資料です。クレートーンとオルティロコスの物語は、勇気、兄弟の絆、そして避けがたい運命といった普遍的なテーマを含んでおり、今日においても読み手の想像力を掻き立てるのです。

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