コルナイ・ヤーノシュ

コルナイ・ヤーノシュ（Kornai Janos、1928年 1月21日 - 2021年10月18日）は、ハンガリーが生んだ世界的に著名な経済学者です。彼は特に、計画経済体制の内部構造と、それに内在する構造的な問題点を深く掘り下げて分析した功績で知られています。ハーバード大学とコルヴィヌス大学の名誉教授を務めました。

生涯

1928年、ハンガリーの首都ブダペストにあるユダヤ人の家庭に生まれました。彼の青年期は、第二次世界大戦の激動期と重なります。1944年、ドイツ軍のハンガリー進駐とそれに続く親ナチス政党・矢十字党による権力掌握は、ユダヤ人であるコルナイにとって過酷な現実をもたらしました。彼は労働キャンプに収容されましたが、そこから辛くも脱走し、修道院に匿われることによって難を逃れ、最終的にソビエト軍による解放を迎えることができました。しかし、彼の父親はこの時期にアウシュビッツ強制収容所で命を落としています。

戦後、1945年にギムナジウムを卒業すると、ハンガリー共産党の指導下にあった青年組織であるハンガリー民主青年同盟に参加し、積極的に活動しました。その活動を通じて共産党に入党します。1948年からは、当時ハンガリー勤労者党の中央機関紙であった『自由な人民』（Szabad Nép）に採用され、経済部の記者として論陣を張りました。しかし、1955年には『自由な人民』を追われることとなり、ハンガリー科学アカデミー付属経済研究所へと活躍の場を移しました。これは、彼の研究者としてのキャリアが本格的に始まる契機となりました。1982年には、ハンガリー科学アカデミーの正会員となっています。

国際的にも活発に活動し、1983年には日本を訪れています。1984年には、アメリカ合衆国の名門であるハーバード大学の教授に就任しました。1985年には、中国政府系のシンクタンクと世界銀行の招きにより、ノーベル経済学賞受賞者のジェームス・トービンらと共に約1ヶ月間中国に滞在しました。この滞在中、彼は当時の趙紫陽首相を含む中国の高官たちに対し、経済に関する講義を行いました。特に国営企業の改革は、当時の中国における重要な課題であり、彼の専門知識が求められました。2001年まで、ハンガリーの中央銀行であるハンガリー国立銀行の理事も務めています。

2002年にハーバード大学を引退した後も、研究活動を続けました。2011年には、ハンガリーのコルヴィヌス大学から名誉教授の称号を授与されています。晩年はハンガリーを拠点として活動し、2021年10月18日にその生涯を閉じました。

業績と思想

コルナイ・ヤーノシュの経済学上の貢献は、主に社会主義計画経済の分析に集約されます。1956年に博士候補論文として提出された『経済管理の過度集権化』は、1958年に英語版が刊行されると大きな注目を集めました。この初期の著作で彼は、社会主義経済が政府の強い主導権の下で中央集権的に管理されていることによって、システム全体を効率的に機能させるための適切なインセンティブや報酬の仕組みが欠如している点を鋭く指摘しました。

その後、コルナイは数理経済学の手法を取り入れ、経済システムの理論構築へと研究を進めます。1971年に発表された著書『反均衡』では、サイバネティックス（システム制御理論）的な視点を用いて、主流派経済学、特にレオン・ワルラス以来の一般均衡理論に対して批判を展開しました。彼は、市場経済であっても完全な均衡状態は一時的なものであり、経済システムは常に不均衡な状態にあると主張し、一般均衡論を超える新たな経済理論の枠組みを提示しました。この著作によって、コルナイは理論経済学の世界でも確固たる地位を築きました。

コルナイの最もよく知られた著作の一つは、1980年に刊行された『不足』です。この書で彼は、社会主義制度の下では、資本主義経済のような需要超過による一時的な品不足とは異なり、物資やサービスが恒常的に不足するという構造的な問題が存在することを明らかにしました。この分析は、東西両陣営の経済学界に強い衝撃を与えました。ハンガリー国内では、その内容への関心の高さから「『不足』という本自体が不足している」と新聞が報じるほどのベストセラーとなり、英語、フランス語、ポーランド語など各言語に翻訳されました。中国語版は非文芸部門の年間ベストセラー賞を受賞し、ロシア語訳は当初非合法な手段で流通しましたが、後にゴルバチョフ政権の下で合法化されました。コルナイ自身は体制転換を直接的に推奨する記述を意図的に避けていたにもかかわらず、多くの読者はこの本を通じて「現行の社会主義体制は改革、あるいは転換が必要である」というメッセージを受け取ったとされています。エリツィン時代にロシア首相代行を務めたエゴール・ガイダルは、「1980年代の誰もが、市場社会主義が不可能であることを証明したコルナイから最大の影響を受けた」と述べています。

1992年には、『社会主義経済システム―共産主義の政治経済学』を著し、長年にわたる社会主義経済研究の集大成ともいえる包括的な分析を示しました。彼は、市場経済における「硬い予算制約」（企業が予算内で活動しなければ破綻する）と、計画経済における「柔らかい予算制約」（企業が予算を超過しても政府によって救済されやすい）という概念を提唱し、これが社会主義経済における非効率性や慢性的な不足の根源にあると分析しました。

コルナイ・ヤーノシュは、自身の厳しい人生経験と卓越した分析力をもって、20世紀後半の経済システム論に多大な貢献をしました。彼の著作は、社会主義経済の実態理解と、その後の市場経済への移行に関する議論に不可欠な洞察を提供しています。

主な日本語訳著作

『反均衡の経済学―経済システム理論の形成をめざして』（日本経済新聞社、1975年）
『反均衡と不足の経済学』（日本評論社、1983年）
『「不足」の政治経済学』（岩波書店、1984年）
『経済改革の可能性―ハンガリーの経験と展望』（岩波書店、1986年）
『資本主義への大転換―市場経済へのハンガリーの道』（日本経済新聞社、1992年）
『コルナイ・ヤーノシュ自伝―思索する力を得て』（日本評論社、2006年）
* 『資本主義の本質について』（NTT出版、2016年／講談社学術文庫、2023年）

もう一度検索