サラの柔らかな香車

橋本長道氏の小説『サラの柔らかな香車』（サラのやわらかなきょうしゃ）は、第24回小説すばる新人賞の受賞作であり、作者の鮮烈なデビューを飾った作品です。また、同年の第24回将棋ペンクラブ大賞（文芸部門）も受賞し、高い評価を得ました。作者である橋本氏自身、中学時代に将棋王将戦で優勝し、プロ棋士を目指して新進棋士奨励会に入会、最高で1級まで昇級したものの、プロになる夢は叶わず退会したという、将棋の世界の厳しさを知る人物です。その経験が本作のリアリティに深く繋がっています。本作の成功を受けて、2014年10月には続編『サラは銀の涙を探しに』が刊行されています。

物語の導入部は、プロ棋士への道を断念し、現在はパチンコで日々を送る29歳の元奨励会員、瀬尾健司の視点から始まります。彼は住まいの団地で、日本人離れした金髪と青い瞳を持つ少女、護池・レメディオス・サラと出会います。瀬尾はひょんなことからサラに将棋を教えることになり、サラは驚異的な速さで才能を開花させていきます。

本作の中心的なテーマは「天才」そして「才能」とは何か、という根源的な問いです。物語は、常人には理解しがたい言動をしながらも将棋に非凡な才能を見せるサラ、かつて瀬尾と共にプロを目指し、不遇な運命を経て女流棋界の頂点に立つ萩原塔子、そして幼い頃から多方面で「天才少女」と称されながらも、将棋で挫折を経験した北森七海という、三人の女性あるいは少女を中心に描かれます。それぞれの異なる将棋との関わり方や人生を通して、「天才」という言葉の光と影、そしてそれに翻弄される人々の姿が克明に映し出されます。

物語の構成も特徴的です。将棋専門誌で連載される将棋ライター・橋元（作者自身をモデルとした人物）による読み物「女神達の肖像」と、女流最高位の塔子と新進気鋭のサラによる緊迫したタイトル戦の対局描写が交互に展開されます。橋元の視点は、夢破れた元奨励会員としての内省や、将棋界の人間模様への洞察を提供し、物語に多角的な視点と深みを与えています。

主要登場人物たちは個性豊かです。
護池・レメディオス・サラ：ブラジル出身の美少女。祖父は「伝説の真剣師」と呼ばれる日本人。時に発する不可解な単語の羅列は、後半で共感覚の可能性が示唆されます。10歳で瀬尾と出会い将棋を始め、破竹の勢いで勝ち進み、女流トップの塔子に挑戦するまでになります。
萩原塔子：女流棋界における最高の棋力の持ち主であり、容姿端麗でファンも多い存在。奨励会時代は瀬尾と同期で、深い絆がありました。しかし、失明の危険を伴う眼病を患い、プロの道を断念。名前を残したいという強い思いから女流プロへと転身しました。
北森七海：幼い頃から多才で、「天才少女」としてメディアの注目を集めた過去を持ちます。特に将棋においては、塔子に憧れ女流棋士を目指していましたが、「小学生名人戦で優勝できなければ将棋を辞める」と公言し、決勝でサラに敗れたことでその道を断たれます。
瀬尾健司：プロ棋士の夢を諦めた元奨励会員。不遇な生活を送る中でサラと出会い、彼女の才能を見出して指導します。塔子とは奨励会時代の深い関係がありましたが、彼女の女流転身を機に疎遠になっています。
* 橋元：将棋専門誌のライターで、連載「女神達の肖像」を担当します。作者自身がモデルとなっており、元奨励会員として「才能がない」と挫折した経験が、物語の重要な視点として機能します。

その他、サラの母である護池・レメディオス・マリアや、七海の師匠である棋士の施川航なども登場し、物語に彩りを添えています。

『サラの柔らかな香車』は、将棋という世界を舞台にしながらも、人間の内面に潜む「才能」への葛藤、夢への挑戦、そして挫折から立ち直る力といった普遍的なテーマを深く掘り下げた作品です。作者自身の経験に裏打ちされたリアリティと、魅力的で複雑な登場人物たちのドラマが融合し、読者に強い感動を与えます。将棋の知識がなくても楽しめる構成でありながら、将棋ファンならばより深く共感できる描写も多く含まれており、様々な読者が楽しめる完成度の高い一作です。

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