サンギータ・ラトゥナーカラ

サンギータ・ラトゥナーカラ（サンスクリット語: सङ्गीतरत्नाकर、Saṅgīta ratnākara）は、「音と踊りの海」と訳される、インドの古典音楽理論に関する極めて重要な文献です。13世紀にシャールンガデーヴァによってサンスクリット語で編纂されたこの書は、後のインド音楽史において、北インドのヒンドゥスターニー音楽と南インドのカルナーティカ音楽という二つの主要な伝統の両方にとって、基礎となる規範の一つとされています。

著者について

著者のシャールンガデーヴァは、元々はインド亜大陸の北西部、カシミール地方のバラモンの家系に生まれました。しかし、当時のイスラーム勢力による影響の拡大に伴い、南への移住を余儀なくされ、デカン高原に位置するヒンドゥー王国の領土、具体的には有名なエローラ石窟群の近くに定住しました。これは、マハーラーシュトラ地方のデーヴァギリを都としたヤーダヴァ王朝が栄えていた時代のことです。シャールンガデーヴァは、この王朝の君主であるシンガナ二世（在位1210年頃～1246年）の宮廷に仕え、経理に関する職務に携わる傍ら、音楽の研究にも深く傾倒した人物でした。

内容の概要

本書は、サンスクリット語で記述された、サンギータに関する詳細な論考です。サンギータとは、単に音楽を指す言葉ではなく、ギータ（歌、旋律）、ヴァディヤ（器楽）、そしてヌリッタ（舞踊、身体表現）という三つの要素が融合した総合芸術様式を意味します。

サンギータ・ラトゥナーカラでは、サンギータを二種類に分類しています。一つはマールガ・サンギータと呼ばれ、『ナーティヤ・シャーストラ』において賢者バラタによって説かれたとされる、古代の音楽様式を指します。もう一つはデーシー・サンギータであり、これは古典的なマールガ様式から離れて、インド各地の地域性や文化が反映され、即興的な要素も取り入れながら独自に発展した形態です。

本書は全七章（アディヤーヤ）から構成されており、それぞれの章でサンギータの様々な側面が体系的に論じられています。

1. スヴァラガターディヤーヤ（音声・音楽理論の基礎）
2. ラーガヴィヴェーカーディヤーヤ（旋律の型、ラーガ論）
3. プラキールナカーディヤーヤ（演奏・芸能実践論）
4. プラバンダーディヤーヤ（楽曲構成、作詞作曲法論）
5. ターラーディヤーヤ（拍子、リズム論）
6. ヴァーディヤーディヤーヤ（楽器論）
7. ナルタナーディヤーヤ（舞踊論）

各章の詳細

第1章は8節からなり、宇宙の音の具現とされるシヴァ神への祈りの歌で始まります。筆者は自身の祖先や過去の賢者、ヒンドゥーの神々を讃えた後、音楽が聖典『サーマ・ヴェーダ』に起源を持つという筆者自身の哲学的見解を述べます。音楽に関する専門用語や理論の解説は第3節以降で展開され、ナーダ（音）、スヴァラ（音程、音色）、シュルティ（微分音）、グラーマ（基本音階）、ムールチャナー（発展音階）、ヴァルナ（音の色合い）、ジャーティ（旋法）、アランカーラ（装飾音）、ギーティ（歌唱法）、拍子など、音楽の基礎概念が網羅されています。最も純粋な音色は『サーマ・ヴェーダ』の中に見出されるとされています。

第2章では、実に253種類ものラーガ（旋律の型、旋法）が詳細に解説されます。

第3章は、ヴェーダ時代におけるサンギータの概要とその後の歴史的発展をまとめた上で、芸能者たちに向けた具体的な演芸実践の指南を行います。これには、劇場空間の構成、舞台衣装や化粧、演奏会の基準、さらには即興演奏の方法論なども含まれています。

第5章では、マールガとデーシーの両方に属する合計120種類のターラ（リズムパターン、拍子）が解説されています。

第6章では、シャールンガデーヴァが古代から13世紀に至るインドの様々な楽器を、弦楽器（弦鳴楽器）、管楽器（気鳴楽器）、打楽器（膜鳴楽器）、体鳴楽器という四つのカテゴリーに分類し、それぞれの楽器の外観、演奏技法、そしてその楽器に適した楽曲の種類について詳細に記述しています。

最後の第7章では、カタックなどの古典舞踊や各地の地方舞踊を取り上げ、舞踊における表現様式、身体の姿勢や身振り手振り、ラサ（芸術が喚起する美的感情、情感）、そして身体の動きに関する理論が解説されています。

歴史的重要性

サンギータ・ラトゥナーカラは、その歴史的な重要性において特筆すべき文献です。13世紀にデリーにおいてイスラーム王朝が成立し、支配を強めていくにつれて、北インドの音楽文化は西アジア、特にペルシアやアラビアの音楽からの影響を強く受けるようになり、その後のヒンドゥスターニー音楽へと独自の発展を遂げていきました。サンギータ・ラトゥナーカラは、このような外来的影響が本格化する以前の、インド固有の豊かで多様な音楽文化を体系的に記録しているため、その後のインド音楽史における変化や伝統の継承を理解する上で、かけがえのない資料となっています。

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