ジュール・ボルデ
ジュール・ボルデ（Jules Bordet, 1870-1961）は、ベルギーの著名な細菌学者であり、免疫学分野における先駆的な研究で知られています。彼の功績は、1919年にノーベル生理学・医学賞として高く評価されました。特に、病原体に対する生体防御機構の一部である「補体」の働きと、それを利用した「補体結合反応」の発見、そして小児の重篤な感染症である百日咳の原因菌（百日咳菌）の特定は、医学の進歩に不可欠な貢献となりました。
ベルギーのソワニーに生まれたボルデは、学校長の父を持つ教育熱心な家庭で育ちました。当初から自然科学への関心が高かったわけではありませんでしたが、中等学校卒業後に自宅で小さな実験室を設け、様々な実験を試みる中で次第に科学の面白さに目覚めていきました。医学を志したのは16歳の時でした。
ブリュッセル大学で医学を修め、1892年に卒業。その後、ベルギー政府からの7年間という長期の奨学金を得て、1894年からパリのパスツール研究所に留学しました。ここでは、当時免疫学の大家として知られたイリヤ・メチニコフの研究室で貴重な学びの機会を得ました。パリでの研究経験を経て、1901年にはブリュッセルに設立されたパスツール研究所の初代所長に就任します。さらに、1907年にはブリュッセル自由大学の細菌学教授となり、教育・研究の責任者としても活躍しました。第一次世界大戦によって大学が甚大な被害を受けた際には、その再建資金を募るために渡米しました。まさにその渡米中にあたる1919年、ノーベル賞受賞の知らせを受けます。資金調達は順調に進み、大学の復興に貢献しました。後年は、細菌を溶かすウイルスであるバクテリオファージの研究にも取り組みました。その学術的な功績は国際的にも認められ、1916年にはイギリスの王立協会外国人会員に選ばれ、1930年には同協会からクルーニアン・メダルを授与されています。1961年、90歳でブリュッセルにてその生涯を閉じました。
ボルデの最も重要な業績の一つは、免疫系のメカニズム、特に血清中に存在する「補体」と呼ばれる成分の発見と、それを利用した「補体結合反応」の確立です。1898年、彼は血清を55℃に加熱すると、抗体自体は残っているにもかかわらず、細菌を殺傷する血清の能力が失われることを発見しました。この観察から、抗体の働きを助ける熱に弱い成分が血清中に存在すると考え、これを「アレキシン」と名付けました（現在では、エールリヒによる「補体」という名称が一般的です）。さらに、免疫を獲得した動物だけでなく、まだ病原体に触れていない動物の血清にも補体が存在することを確認しました。
1905年には、この補体の性質を利用した補体結合反応を発見します。この反応は、特定の抗体と抗原が結合する際に補体が消費される現象に基づいています。1910年には、実際に抗原抗体反応が起こると補体の量が減少することを確認し、補体結合反応が抗原や抗体の存在を非常に敏感に検出できる診断法として応用可能であることを示しました。この原理は、ドイツの医師アウグスト・ワッセルマンによって梅毒の診断法（ワッセルマン反応）として確立され、広く用いられるようになりました。ボルデ自身も腸チフスや動物のインフルエンザであるブタ風邪の診断に補体結合反応を応用しています。
現代科学では、補体が約20種類もの異なるタンパク質群から構成され、それらが連鎖的に活性化する「カスケード反応」を起こすことで、最初の小さな刺激が増幅される高感度なシステムであることが明らかになっています。このカスケード反応の終盤に登場するC9補体は、単独では無害ですが、多数集まることでドーナツ状の構造体（膜障害複合体）を形成し、細菌の細胞膜に穴を開けて内容物を流出させ、細菌を死滅させる役割を果たします。
もう一つの主要な業績は、百日咳の病原体の発見です。1906年、ボルデは同僚のオクターブ・ジャングと共に、百日咳患者の喀痰中に特徴的な細菌が存在することを以前から観察していましたが（1900年）、当時の標準的な培養方法では増殖させることができませんでした。そこで彼らは、グリセリンと馬鈴薯、血液を加えた特別な寒天培地（後にボルデ・ジャング培地と呼ばれる）を開発しました。この新しい培地を用いることで、百日咳患者からこの特異的な細菌を分離・培養することに成功し、これが百日咳の原因菌であることを突き止めました。この細菌は後に Bordetella pertussis と命名され、属名である Bordetella は発見者であるボルデの名に由来しています。ボルデは後に、この百日咳菌に対するワクチンの開発にも成功しました。
ジュール・ボルデの研究は、免疫学の基礎を築き、感染症の診断と予防において画期的な進歩をもたらしました。補体結合反応は様々な感染症の診断法として広く応用され、百日咳菌の発見とワクチン開発は、この危険な病気から多くの子供たちの命を救うことに繋がりました。彼の業績は、今日の免疫学、微生物学、そして臨床検査医学においても重要な位置を占めています。
関連項目
ジュール・ボルデ (小惑星)
参考文献
ブラック微生物学 林英生、岩本愛吉、神谷茂、高橋秀実監訳、丸善、2003年 ISBN 4621072129
生涯
ベルギーのソワニーに生まれたボルデは、学校長の父を持つ教育熱心な家庭で育ちました。当初から自然科学への関心が高かったわけではありませんでしたが、中等学校卒業後に自宅で小さな実験室を設け、様々な実験を試みる中で次第に科学の面白さに目覚めていきました。医学を志したのは16歳の時でした。
ブリュッセル大学で医学を修め、1892年に卒業。その後、ベルギー政府からの7年間という長期の奨学金を得て、1894年からパリのパスツール研究所に留学しました。ここでは、当時免疫学の大家として知られたイリヤ・メチニコフの研究室で貴重な学びの機会を得ました。パリでの研究経験を経て、1901年にはブリュッセルに設立されたパスツール研究所の初代所長に就任します。さらに、1907年にはブリュッセル自由大学の細菌学教授となり、教育・研究の責任者としても活躍しました。第一次世界大戦によって大学が甚大な被害を受けた際には、その再建資金を募るために渡米しました。まさにその渡米中にあたる1919年、ノーベル賞受賞の知らせを受けます。資金調達は順調に進み、大学の復興に貢献しました。後年は、細菌を溶かすウイルスであるバクテリオファージの研究にも取り組みました。その学術的な功績は国際的にも認められ、1916年にはイギリスの王立協会外国人会員に選ばれ、1930年には同協会からクルーニアン・メダルを授与されています。1961年、90歳でブリュッセルにてその生涯を閉じました。
業績
ボルデの最も重要な業績の一つは、免疫系のメカニズム、特に血清中に存在する「補体」と呼ばれる成分の発見と、それを利用した「補体結合反応」の確立です。1898年、彼は血清を55℃に加熱すると、抗体自体は残っているにもかかわらず、細菌を殺傷する血清の能力が失われることを発見しました。この観察から、抗体の働きを助ける熱に弱い成分が血清中に存在すると考え、これを「アレキシン」と名付けました（現在では、エールリヒによる「補体」という名称が一般的です）。さらに、免疫を獲得した動物だけでなく、まだ病原体に触れていない動物の血清にも補体が存在することを確認しました。
1905年には、この補体の性質を利用した補体結合反応を発見します。この反応は、特定の抗体と抗原が結合する際に補体が消費される現象に基づいています。1910年には、実際に抗原抗体反応が起こると補体の量が減少することを確認し、補体結合反応が抗原や抗体の存在を非常に敏感に検出できる診断法として応用可能であることを示しました。この原理は、ドイツの医師アウグスト・ワッセルマンによって梅毒の診断法（ワッセルマン反応）として確立され、広く用いられるようになりました。ボルデ自身も腸チフスや動物のインフルエンザであるブタ風邪の診断に補体結合反応を応用しています。
現代科学では、補体が約20種類もの異なるタンパク質群から構成され、それらが連鎖的に活性化する「カスケード反応」を起こすことで、最初の小さな刺激が増幅される高感度なシステムであることが明らかになっています。このカスケード反応の終盤に登場するC9補体は、単独では無害ですが、多数集まることでドーナツ状の構造体（膜障害複合体）を形成し、細菌の細胞膜に穴を開けて内容物を流出させ、細菌を死滅させる役割を果たします。
もう一つの主要な業績は、百日咳の病原体の発見です。1906年、ボルデは同僚のオクターブ・ジャングと共に、百日咳患者の喀痰中に特徴的な細菌が存在することを以前から観察していましたが（1900年）、当時の標準的な培養方法では増殖させることができませんでした。そこで彼らは、グリセリンと馬鈴薯、血液を加えた特別な寒天培地（後にボルデ・ジャング培地と呼ばれる）を開発しました。この新しい培地を用いることで、百日咳患者からこの特異的な細菌を分離・培養することに成功し、これが百日咳の原因菌であることを突き止めました。この細菌は後に Bordetella pertussis と命名され、属名である Bordetella は発見者であるボルデの名に由来しています。ボルデは後に、この百日咳菌に対するワクチンの開発にも成功しました。
ジュール・ボルデの研究は、免疫学の基礎を築き、感染症の診断と予防において画期的な進歩をもたらしました。補体結合反応は様々な感染症の診断法として広く応用され、百日咳菌の発見とワクチン開発は、この危険な病気から多くの子供たちの命を救うことに繋がりました。彼の業績は、今日の免疫学、微生物学、そして臨床検査医学においても重要な位置を占めています。
関連項目
ジュール・ボルデ (小惑星)
参考文献
ブラック微生物学 林英生、岩本愛吉、神谷茂、高橋秀実監訳、丸善、2003年 ISBN 4621072129
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