スラック (アルバム)

『スラック』（THRAK）

1995年に発表されたキング・クリムゾンのスタジオアルバム『スラック』は、前作『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』（1984年）から11年ぶりとなるフルレンス作品です。本作は、バンドが1994年にリリースしたミニアルバム『ヴルーム』で初めて披露した、革新的な6人編成、通称「ダブル・トリオ」によってレコーディングされました。これは、キング・クリムゾンの長いキャリアにおいても特異な期間の始まりを告げる重要な作品と言えます。

革新的な「ダブル・トリオ」編成と制作の軌跡

キング・クリムゾンがこの時期に採用した「ダブル・トリオ」は、従来のバンド編成の概念を覆すものでした。創設メンバーであるロバート・フリップ（ギター）、そして80年代クリムゾンを支えたエイドリアン・ブリュー（ギター、ボーカル）、トニー・レヴィン（ベース、バッキング・ボーカル）、ビル・ブルーフォード（ドラムス、パーカッション）という強力な4人に加え、新たにトレイ・ガン（チャップマン・スティック、バッキング・ボーカル）とパット・マステロット（ドラムス、パーカッション）が加入。2本のギター、2つの低音楽器、2セットのドラムスという、文字通りトリオが二組合わさったような布陣は、サウンドに前例のない密度と複雑さをもたらしました。

アルバム『スラック』の制作過程は、このダブル・トリオ編成の本格的な始動と密接に関わっています。バンドは『ヴルーム』を発表する前後、1994年にアルゼンチンへ渡航。同年9月30日には一般に公開される形でのリハーサルを行い、続く10月には、新しい6人によるライブパフォーマンスを初披露しました。これらの初期のライブ活動で、バンドはダブル・トリオとしての演奏スタイルやサウンドを磨き上げていきました。その後、彼らはイギリスに戻り、著名なミュージシャンでありプロデューサーでもあるピーター・ガブリエルが所有する、高い音響性能で知られるリアル・ワールド・レコーディング・スタジオにて、『スラック』のための集中的なレコーディング・セッションを行いました。スタジオでの作業は、ライブでの経験を踏まえつつ、緻密なアレンジや実験的なサウンドメイクが追求されました。

楽曲の構成と特筆すべき作品

本作に収録されている全15曲の作曲は、ダブル・トリオのメンバー6人全員がクレジットされています。これは、個々のメンバーが持つ多様な音楽的背景や技術が、分け隔てなく創造プロセスに貢献したことを物語っています。その結果、アルバムは強烈なインストゥルメンタル曲と、エイドリアン・ブリューが叙情的あるいは哲学的な詞を手がけたボーカル曲が有機的に組み合わされた構成となっています。ブリューのボーカル曲は、しばしば内省的なテーマや人間関係を描き出し、ダブル・トリオによる複雑なアンサンブルに深みを与えています。

特にアルバムタイトルにも冠された楽曲「スラック」は、この時期のキング・クリムゾンを象徴する作品の一つです。ライブにおけるこの曲の演奏は、楽曲の骨子となるパートに加えて、メンバーそれぞれの即興的な応答や展開が盛り込まれることが常でした。彼らの卓越したインタープレイ能力が遺憾なく発揮される場で、「スラック」は単なる楽曲演奏にとどまらず、流動的な音楽創造の場となりました。このライブでの側面は、1996年にリリースされたライブアルバム『スラックアタック』に集約されています。このアルバムは、1995年の日本およびアメリカでのツアーから、「スラック」演奏中に発生したインプロヴィゼーション・セクションを厳選・編集して構成されており、『スラック』の世界観を拡張する内容となっています。

また、アルバムの主要曲の一つである「ダイナソー」も、後のエイドリアン・ブリューのソロ活動に引き継がれました。1997年に発表された彼のソロ・アコースティックアルバム『ブリュープリンツ』（アメリカでの発売は1998年）では、「ダイナソー」がアコースティック楽器中心のアレンジでセルフカバーされています。原曲の持つメロディや雰囲気を保ちつつ、よりパーソナルで温かみのあるサウンドに生まれ変わったこのバージョンは、楽曲の普遍的な魅力を示しています。

『スラック』収録曲

以下が、アルバム『スラック』に収録されている全15トラックのリストです。

1. ヴルーム - "VROOOM" - 4:37
2. コーダ：マリーン - "Coda: Marine 475" - 2:41
3. ダイナソー - "Dinosaur" - 6:35
4. ウォーキング・オン・エアー - "Walking on Air" - 4:34
5. B'ブーム - "B'Boom" - 4:11
6. スラック - "THRAK" - 3:58
7. インナー・ガーデンI - "Inner Garden I" - 1:47
8. ピープル - "People" - 5:53
9. レイディオ I - "Radio I" - 0:43
10. ワン・タイム - "One Time" - 5:21
11. レイディオ II - "Radio II" - 1:02
12. インナー・ガーデンII - "Inner Garden II" - 1:15
13. セックス、スリープ、イート、ドリンク、ドリーム - "Sex Sleep Eat Drink Dream" - 4:48
14. ヴルーム・ヴルーム - "VROOOM VROOOM" - 5:37
15. ヴルーム・ヴルーム：コーダ - "VROOOM VROOOM: Coda" - 3:00

これらの楽曲は、短いSE的なトラックから長尺の複雑な構成を持つものまで多岐にわたり、アルバム全体を通して聴く者を飽きさせない変化に富んだ展開を見せます。インストゥルメンタル曲では6人の演奏者が織りなす重層的なサウンドが、ボーカル曲ではブリューの歌声を中心に、それぞれの楽器が独特のテクスチャーを加えています。

アルバムを支えたミュージシャンたち

『スラック』における特異なサウンドは、以下の6人の精鋭ミュージシャンたちの才能と相互作用によって実現しました。

ロバート・フリップ: ギター、サウンドスケープ、メロトロンを担当。バンドのリーダーとして、サウンド全体の方向性を定めつつ、独特のギターワークと実験的なサウンドスケープでクリムゾンの音楽性を牽引しました。
エイドリアン・ブリュー: ギターとメインボーカルを担当。個性的なギターサウンドと、時にユーモラスに、時に内省的に歌い上げるボーカル、そして独特の作詞センスで、楽曲に人間的な温かみと多様な表情を与えました。
トニー・レヴィン: エレクトリックベース、アップライト・ベース、バッキング・ボーカルを担当。彼のパワフルかつ柔軟なベースプレイは、リズムセクションの要として、重厚な低音を支えつつ、時にリズミカルなフレーズで楽曲に推進力を与えました。
トレイ・ガン: チャップマン・スティック、バッキング・ボーカルを担当。チャップマン・スティックというユニークな楽器を操り、ベースとギターの中間のような役割や、タッピングによる複雑なフレーズ、テクスチャー的なサウンドで、ダブル・トリオのサウンドに新たな次元を加えました。
ビル・ブルーフォード: ドラムス、パーカッションを担当。長年クリムゾンのリズムを支えてきたブルーフォードは、その卓越した技術とポリリズミックなアプローチで、複雑な拍子やリズムパターンを構築。パット・マステロットとのツインドラムで、より立体的でパワフルなドラミングを実現しました。
パット・マステロット: ドラムス、パーカッションを担当。加入以前から様々なバンドで活動してきたマステロットは、そのパワフルでありながらも繊細なプレイで、ブルーフォードとは異なるアプローチでリズムセクションを支えました。二人のドラマーによる相互作用は、『スラック』のサウンドの大きな特徴の一つです。

この6人のミュージシャンによる、それぞれの個性を最大限に活かした演奏と、複雑でありながらも有機的な相互作用こそが、『スラック』という作品を、キング・クリムゾンのディスコグラフィーの中でも特に挑戦的で魅力的な一枚たらしめています。彼らの奏でるサウンドは、プログレッシブ・ロックの新たな可能性を示すものでした。

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