トロピカミド

トロピカミド（Tropicamide）は、眼科診断や治療に欠かせない薬剤の一つです。これは、アセチルコリンの働きを妨げる「ムスカリン拮抗薬」と呼ばれるタイプの薬で、特にムスカリン性アセチルコリン受容体を阻害する作用を持っています。主に点眼液として使用され、日本国内では「サンドール」や「ミドリン」といった商品名で知られています。

効能と効果

この薬剤の主な用途は、眼の内部、具体的には水晶体、硝子体液、そして網膜を詳しく観察しやすくすることにあります。点眼することで、瞳孔を大きく開く「散瞳（さんどう）」作用と、遠近のピント調節を司る毛様体筋の動きを一時的に止める「調節麻痺（ちょうせつまひ）」作用をもたらします。この作用は比較的短時間で、通常4時間から8時間程度持続します。そのため、光をたくさん取り込んで眼底を詳細に調べる散大眼底検査をはじめとする様々な眼科検査の際に頻繁に用いられます。また、眼科手術を行う前後に使用されることもあります。

さらに、トロピカミド点眼液は、眼の前方の炎症である「前眼房のぶどう膜炎」の治療や、虹彩と水晶体が癒着するのを防ぐ目的、あるいは前眼房内の炎症を和らげるためにも使用されることがあります。

時には、瞳孔をより効果的に、あるいは素早く広げるために、ノルアドレナリンなどに似た働きをする「アドレナリン作動薬」であるノルフォレドリンと組み合わせて使用されることもあります。

禁忌と注意すべき点

トロピカミドには使用してはならないケースがあります。この薬の作用により毛様体筋が緩むと、眼の内部の水分（眼房水）の主な排出口であるシュレム管が狭まり、眼房水の排出が妨げられて眼圧が上昇する危険性があります。このため、すでに緑内障（閉塞隅角緑内障、開放隅角緑内障のいずれも）と診断されている方には使用できません。また、眼圧が上がりやすい「狭隅角（きょうぐうかく）」や「前房が浅い」といった緑内障発症の素因がある方にも、原則として使用すべきではありません。

副作用

トロピカミドの使用によって、いくつかの副作用が発生する可能性がありますが、その正確な頻度は明らかになっていません。報告されている副作用には、まぶたの赤みや腫れを伴う眼瞼炎、眼のかゆみ、発疹、じんましんなどの皮膚症状があります。眼科的な副作用としては、眼圧の上昇、結膜の充血やむくみを伴う結膜炎などが挙げられます。

多くの使用者において、点眼時に一時的な刺激感や、わずかな眼圧の上昇が認められるとされています。点眼後には、目が赤くなったり結膜炎を起こしたり、一時的に視界がかすんだり、近くが見えにくくなる（近視のような状態になる）ことがあります。これらの視覚異常が生じている間は、車の運転や危険な作業を伴う機械の操作などは絶対に行わないでください。非常に稀ではありますが、素因として前眼房が狭い方では、トロピカミドの使用がきっかけで急性の閉塞隅角緑内障発作を引き起こす可能性も報告されています。ご自身の目の状態（特に隅角の広さなど）について事前に医師の説明を受け、把握しておくことが重要です。

散瞳薬として、アトロピンという別の薬剤も存在しますが、アトロピンは一度使用すると視界のかすみが1週間近く続くことがあるのに対し、トロピカミドは作用時間が短いため、検査後の視機能回復が比較的早いという利点があり、この点で好まれる傾向があります。アトロピンの方が点眼時の刺激感は少ないとされますが、誤って全身に大量に投与された場合の毒性は高く、特に小児では命に関わる事例も過去に報告されています。一方、トロピカミドが原因で全身性の副作用が起きることは稀であるとされています。

薬理作用のメカニズム

トロピカミドの瞳孔散大作用は、眼の瞳孔を小さくする役割を持つ「瞳孔括約筋」の表面にある「M3受容体」という構造に結合し、本来アセチルコリンが結合して筋肉を収縮させる働きを妨げることによって起こります。これにより、瞳孔括約筋が弛緩し、瞳孔が開きます。

乱用事例

国際的な調査プロジェクトであるReDNetの研究者からの報告によると、一部地域、特にロシアでは、トロピカミドが比較的安価に入手できるため、娯楽目的で静脈注射により乱用されている事例が確認されています。これは、せん妄状態を引き起こす目的や、ヘロインやメサドンなどのオピオイド系薬物と混ぜて、それらの効果を増強させるために行われることが多いとされています。

立体化学

トロピカミドの分子構造には、「立体中心」と呼ばれる原子が存在し、これにより互いに鏡像の関係にある2つの異性体（エナンチオマー）が存在します。医薬品として供給されているトロピカミドは、これら2つの異性体、(R)体と(S)体が1対1の割合で混ざり合った「ラセミ体」です。

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