ナイロンザイル事件

「ナイロンザイル事件」、または「ナイロンザイル切断事件」として知られるこの出来事は、1955年（昭和30年）1月2日に日本の北アルプスで発生した、登山中のロープ破断による死亡事故と、それに端を発した登山界および社会全体の騒動を指します。事故の原因となったのは、当時導入され始めたばかりのナイロン製のクライミングロープでした。このロープは東洋レーヨン（現・東レ）のナイロン糸を東京製綱（現・東京製綱繊維ロープ）が加工した製品です。

事件の背景

当時、登山界では従来の麻製ロープに代わる新たな素材として、ナイロン製ロープが登場したばかりでした。メーカーが公表していた静的な引っ張り強度データは、麻製ロープをはるかに凌駕しており、さらに軽量で柔らかく、水に濡れても凍結しにくいといった利点があったため、登山者の間ではその強度と信頼性を疑う声はほとんどありませんでした。

事故の発生

悲劇が起きたのは1955年 1月2日、三重県岩稜会に所属する3人の登山家、石原國利（パーティーリーダー）、若山五朗、沢田栄介が北アルプス前穂高岳の東壁を登攀していた時のことです。登攀中に若山氏が約50センチメートル滑落した際、頭上の岩にかけたばかりの新品の直径8mmナイロン製ロープが、何の衝撃音もなくあっけなく破断してしまいました。この事故により、若山氏は墜落死しました。岩稜会にとって、ナイロン製ロープを使用した初めての機会でした。この破断したロープは、直径11mmの麻製ロープに匹敵する強度があるとされていた製品でした。

関係者の疑念と類似事故

事故の報告を受けて下山したパーティーは、偶然にも1954年 12月28日にも近くの明神岳東壁で類似の事故が発生していたことを耳にします。その事故でも「確保者にほとんど墜落の衝撃が伝わらなかった」という報告があり、ロープの強度に対して関係者の間で疑問が生じました。さらに、翌日の1月3日には同じ前穂高岳で、大阪市立大学山岳部のパーティーが使用していた直径11mmのナイロン製ロープが破断する事故が発生。これらの事故で合計2名の登山者が重軽傷を負い、事態の深刻さが明らかになりました。

科学的検証と公開実験

事故で亡くなった若山五朗氏の実兄である石岡繁雄氏は、旧制名古屋大学工学部出身の技術者でした。弟の死の原因究明のため独自に実験を重ねた結果、彼は驚くべき事実を突き止めます。公表されている高い強度とは裏腹に、実際の岩壁登攀で避けられない鋭利な岩角に直径8mmのナイロン製ロープが接触した状態で、人間の体重程度の比較的軽い力がかかると、容易に破断してしまうというものです。

一方、ロープメーカーである東京製綱は、大阪大学工学部の篠田軍治教授（日本山岳会関西支部長）の指導のもと、1955年4月29日に同社の蒲郡工場で山岳関係者や報道陣を招いて公開実験を実施しました。篠田教授は事前の実験で、岩角に接触した場合のナイロン製ロープの強度が、麻製ロープの20分の1しかないというデータを得ており、石岡氏にもその旨を伝えていました。しかし、公開実験では参加者には伏せたまま、実験に用いる岩角に意図的に丸みをつけるという不正が行われました。その結果、ナイロン製ロープは麻製ロープより数倍強いという誤ったデータが示され、そのように報道されてしまいます。この公開実験以降、山岳雑誌や化学学会誌には「岩稜会は自分たちのミスをナイロンザイルのせいにした」といった内容の記事が掲載されました。

岩稜会の反論と『氷壁』の誕生

岩稜会側は、誤った情報を拡散したとして篠田教授を名誉毀損で告訴（約1年後に不起訴処分）。さらに、事件の真相を広く訴えるため、1956年夏にガリ版刷り310ページの冊子『ナイロン・ザイル事件』を150部作成し、関係各所に配布しました。この冊子の存在を知った作家の井上靖は、石岡氏や事故パーティーのリーダーだった石原氏らから綿密な取材を行い、この事件の初期段階を題材とした小説『氷壁』を執筆。1956年11月から翌年8月にかけて、朝日新聞に270回にわたり連載されました。この小説は大きな反響を呼び、上高地や徳沢といった舞台となった場所が多くの人々に知られるきっかけとなりました。

安全基準法の制定へ

当時の日本山岳会は、1956年版の『山日記』に、蒲郡での偽りの公開実験に基づく篠田教授によるナイロン製ロープの強度に関する誤った記述を掲載し続けました。岩稜会は、こうした記述が登山者の生命を危険に晒すとして訂正を求めましたが、日本山岳会からの正当な対応は得られませんでした。その後も、ナイロン製ロープの破断による事故は相次ぎ、多くの犠牲者が出ました。

岩稜会の長年にわたる粘り強い訴えと活動が実を結び、ついに1973年（昭和48年）6月、消費生活用製品安全法が制定された際に、クライミングロープがその対象製品として含められることになりました。そして1975年（昭和50年）6月には、クライミングロープに関する具体的な安全基準が公布されます。これにより、クライミングロープは直径9mm以上と定められ、直径8mmのロープは二重で使用しても補助ロープ扱いとなり、主たる登山用ロープとしては認められなくなりました。この日本の安全基準は、クライミングロープに関するものとしては世界で初めてのものでした。

通商産業省（現・経済産業省）の調べによれば、ナイロンザイル事件発生からこの法律が施行されるまでの間に、ロープ破断によって少なくとも20人以上の登山者が命を落としています。しかし、安全基準が実施されて以降、ナイロン製ロープの破断による死亡事故はなくなったと言われています。

その後の影響と歴史的意義

法律の施行後、日本山岳会は1977年版の『山日記』に、1956年版の篠田教授の記述が多くの人に迷惑をかけたことに対し、事実上の訂正となる「お詫び」を掲載しました。これは誤った情報を掲載してから実に21年後のことでした。

ナイロンザイル事件における岩稜会、特に石岡繁雄氏らの真相究明と安全基準制定に向けた取り組みは、後の製造物責任法（PL法）の考え方を先取りした活動であったとも評価されています。石岡繁雄氏はその後も安全対策の研究を続け、ビル火災からの脱出装置などを開発しました。彼は生涯にわたり岩稜会会長を務め、2006年に88歳で死去しました。2007年には、小説では描かれなかった多くの事実を詳述したドキュメンタリー『石岡繁雄が語る - 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』が刊行されています。

この事件で使用され、破断したナイロンザイルの一部は、現在大町山岳博物館に収蔵されており、日本の登山史における安全性の確立に向けた苦難の道のりを今に伝えています。

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