ニュルンベルクのマイスタージンガー

概要

『ニュルンベルクのマイスタージンガー』は、19世紀ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーが作曲した全3幕からなる楽劇で、ワーグナーの作品の中では珍しい喜劇です。自らリブレットも手がけ、16世紀中ごろのニュルンベルクを舞台に、マイスタージンガー（親方歌手）たちの歌合戦を中心に物語が展開します。

上演時間は約4時間20分と長大ですが、その音楽の美しさやドラマチックな展開、そして登場人物たちの魅力的な描写により、幅広い人気を博しています。しかし、その一方で、ワーグナーの思想的背景や反ユダヤ主義的な要素も指摘されており、多角的な視点からの考察も必要とされる作品です。

マイスタージンガーとは、中世ドイツの都市で活躍した職人であり、作詞、作曲、歌唱を兼ねる音楽家でもありました。彼らは独自の規則と形式に従い、芸術活動を行なっていました。本作では、このマイスタージンガーたちの世界が、ワーグナーによって美化・理想化されて描かれています。

作曲の経緯

ニュルンベルクでの原体験

ワーグナーは1835年、ニュルンベルクを訪れた際、酒場で歌自慢の職人が笑いものにされる場面や、些細なことから暴動寸前の騒ぎが起こる場面を目撃しました。これらの体験が、本作の第2幕の騒動や第3幕のベックメッサーが恥をかく場面に投影されています。

ワーグナーは以前から、オペラ・コミックともヴォードヴィルとも異なる喜劇のスタイルを模索しており、1838年には喜歌劇の構想を立てていましたが、未完に終わっていました。

第1散文稿

1845年、ワーグナーは保養先の地で、ハンス・ザックスを含むマイスタージンガーたちの姿に魅せられ、「3幕の喜歌劇」として第1散文稿を書き上げました。この時点では、まだ「軽い喜劇」という位置づけであり、オペラ『タンホイザー』と対になるような作品として構想されていました。

しかし、この計画は、歌劇『ローエングリン』の制作や、ワーグナーが政治運動に関与して国外亡命となったことで、一旦中断されました。その後、10年以上の歳月を経て、ワーグナーは再び本作の制作に取り組み始めます。

ヴェネツィア旅行

1861年、ワーグナーはヴェネツィアを旅行中に、ティツィアーノの絵画に感銘を受け、本作を完成させる決意を固めたとされています。しかし、実際には旅行前から本作の構想は進んでおり、ヴェネツィア旅行は、かつて愛した女性との再会と別れという、ワーグナー自身の感情的な転換期でもありました。

第2散文稿 - 第3散文稿

ヴェネツィアから戻ったワーグナーは、1861年11月に第2散文稿を完成させました。この際、マイスタージンガーに関する資料を収集し、作品に反映させています。また、16世紀のニュルンベルクを舞台にした小説や劇作も参考にしています。

第3散文稿では、ザックスの二つのモノローグや、ベックメッサーがザックスの詩を盗む場面などが加えられ、より現行版に近い形となりました。

台本の完成

1862年1月、ワーグナーは韻文初稿を完成させ、その後、韻文浄書稿を経て、印刷台本初版が出版されました。この過程で、ザックスがエファへの恋心を断ち切り、諦念の境地に達するという新たな要素が加わり、ワーグナー自身の恋愛体験が投影されています。

自己理論からの逸脱

ワーグナーは、自著で詩人は音楽家に従属すべきと主張していましたが、本作の制作過程では、台本を先に完成させ、音楽は後からつけるという、自身の理論とは異なる方法を取りました。この点は、当時のワーグナーの経済的な事情や、一刻も早く新作を世に出したいという焦りが影響していると考えられます。

作曲と台本の改編

1862年3月から本格的な作曲に取り掛かりましたが、台本は作曲の過程で徹底的に改変されました。ワーグナーは、印刷台本を作業用の底本とし、音楽に合わせてテクストを差し替え、ト書きも加筆・修正・削除しました。この改変により、スコアのテクストは初版書き込み本を大きく超えるものとなりました。

中断から完成へ

1863年から1866年まで作曲は中断しましたが、バイエルン王ルートヴィヒ2世との出会いにより、経済的な支援を得て、再び制作に取りかかることができました。ワーグナーが本作を完成させたのは1867年2月です。

初演

1868年6月21日、ハンス・フォン・ビューローの指揮により、ミュンヘン宮廷歌劇場で初演されました。初演は大成功を収め、観客からは熱狂的な歓声が上がりました。その後、各地で上演されるようになり、今日ではワーグナーの代表作の一つとして知られています。

物語

ワーグナー唯一の「歴史ドラマ」

本作は、ワーグナー作品の中で唯一、神話や伝説ではなく、歴史を題材にしたドラマです。16世紀のニュルンベルクで活躍したハンス・ザックスを主人公に、マイスタージンガーたちの活動や、当時の社会状況が描かれています。

市民劇としての『ニュルンベルクのマイスタージンガー』

本作は、18世紀から19世紀初頭にかけての啓蒙時代に生まれた「市民劇」の流れを汲んでいます。市民劇は、社会における個人の葛藤や、市民生活を描いたドラマであり、本作は、その伝統を受け継ぎながら、独自のテーマを打ち出しています。

史実との違い

本作で描かれるニュルンベルクの町は、現実とはかけ離れた理想化されたものです。史実では、参事会が強い権力を持っていましたが、劇中では芸術が支配するユートピアとして描かれています。また、マイスタージンガーの制度や仕組みについても、史実から大胆な変更が加えられています。

ユートピア思想と「迷妄(Wahn)」

本作は、ワーグナーのユートピア思想を反映した作品であり、第3幕の「迷妄のモノローグ」では、「迷妄(Wahn)」が芸術や創造の原動力であることが示唆されています。ワーグナーは、哲学者ショーペンハウアーの思想に影響を受けつつも、ペシミズムに留まらず、迷妄を肯定的な力として捉えました。

ワーグナーの芸術観の投影

本作には、ワーグナー自身の芸術観が色濃く投影されています。マイスタージンガーの伝統に挑むヴァルターの姿や、ザックスが自己の感情を抑制する姿は、ワーグナー自身の葛藤や理想を表しているといえるでしょう。また、音楽理論や作品の誕生プロセスも劇中に反映されています。

反ユダヤ主義

本作には、ワーグナーの反ユダヤ主義的な思想が反映されていると指摘されています。ベックメッサーの人物像や、一部の台詞には、ユダヤ人を揶揄するような表現が見られます。また、ワーグナーは、自身の音楽を批判した音楽評論家をベックメッサーのモデルにしたとも言われています。これらの点については、作品を理解する上で慎重な考察が必要です。

ザックスの最終演説について

第3幕のザックスの最終演説は、ワーグナー自身の思想や時代の流れを反映したものです。ドイツ芸術の価値を訴える一方で、排外主義的な側面も持ち合わせています。この演説は、ワーグナー自身の矛盾を映し出しているとも解釈できます。

音楽

特徴

本作の音楽は、「全音階法」「コラール」「対位法」の3つの要素を特徴としています。これらの要素が、作品に古めかしい印象を与えていますが、それぞれについて見ると、必ずしも単純ではありません。また、ワーグナーは、本作をバッハの系譜に連なるものとして認識していました。

第1幕への前奏曲

前奏曲は、劇中の主要動機が明確な形で要約されており、作品の精髄ともいえます。4つの構成部分からなり、ソナタ形式に対応すると同時に、交響曲の4つの楽章にも対応しています。

テトラコルドと4度音程

本作の音楽は、テトラコルドと4度音程を基盤としています。テトラコルドは、作品の至る所に浸透しており、ワーグナーは、この概念を利用して、作品に統一感を与えています。また、増4度や減4度といった音程にも、意味論的な解釈を与えています。

『トリスタンとイゾルデ』との関係

本作は、前作『トリスタンとイゾルデ』と共通するモチーフや、音楽的な要素が見られます。特に、エファとヴァルターの恋愛は、『トリスタンとイゾルデ』の悲恋を想起させます。また、第3幕では、『トリスタンとイゾルデ』の動機が直接引用されています。

配役について

登場人物それぞれに個性があり、ザックス、ヴァルター、エファ、ベックメッサーなど、各役柄に合った歌唱力や演技力が要求されます。特にザックスは、ワーグナー作品の中でも最も人間味あふれる人物として描かれ、バス歌手の最高峰とされる役どころです。

上演史と演出

バイロイト音楽祭

バイロイト音楽祭では、1888年から数多くの演出が試みられてきました。コジマ・ワーグナーによる古典的な演出から、ヴィーラント・ワーグナーによる精神的な演出、そして近年のカタリーナ・ワーグナーによる現代的な演出まで、様々な解釈がなされています。

現代演出

現代のオペラ演出では、時代や場所を置き換えることが多くなっていますが、本作については、16世紀ニュルンベルクという舞台を動かすことは難しいとされています。また、物語の終わりにおけるザックスとベックメッサーの和解は、演出家によって解釈が分かれる点です。

録音

数多くの録音が残されており、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、カラヤンなど、著名な指揮者による名盤が多数あります。これらの録音は、それぞれ異なる解釈や表現を持っており、聴き比べることで、本作の魅力をより深く味わうことができるでしょう。

まとめ

『ニュルンベルクのマイスタージンガー』は、ワーグナーの芸術的才能と思想的背景が結実した、複雑で多面的な作品です。その音楽の美しさやドラマチックな展開は、聴く者を魅了し、深く考えさせます。本作は、単なる喜劇としてだけでなく、芸術、社会、そして人間性について考察する上で、貴重な示唆を与えてくれるでしょう。

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