ヌビア遺跡

アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡群

エジプト南部、雄大なナイル川流域に位置する「アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡群」は、古代エジプト文明が築いた壮大な建築群や遺構を含む、歴史的に極めて重要な地域です。この一帯は、アブ・シンベルからフィラエに至る広範囲にわたって分布しており、かつてエジプトの南方の玄関口として栄えたヌビア地方の中心でした。

水没の危機と国際協力による救済

20世紀半ば、エジプト政府はナイル川の治水と電力供給を目的としたアスワン・ハイ・ダムの建設計画を進めました。しかし、この巨大ダムの完成は、周辺地域のヌビア遺跡を大規模な水没の危機に晒すこととなりました。多くの貴重な遺跡が水底に沈む可能性が浮上したのです。

この事態に対し、当時のエジプト文化大臣であったサルワト・オカーシャは、国際社会に遺跡保護への協力を呼びかけました。これを受けて、国際連合教育科学文化機関（ユネスコ）が中心となり、「ヌビア水没遺跡救済キャンペーン」が開始されます。

キャンペーン初期は資金集めに苦慮しましたが、ユネスコは世界各地で古代エジプトの展覧会を開催することで支援を募りました。特に、1965年に日本の東京国立博物館で開催されたツタンカーメン展は大きな反響を呼び、救済活動への関心を高める一助となりました。最終的に、世界60ヶ国からの援助が集まり、遺跡の移築や保護のための技術支援、詳細な考古学調査などが実施されました。

世界遺産条約誕生の契機

この前例のない大規模な国際協力によるヌビア遺跡救済の経験は、人類共通の財産である文化遺産や自然遺産を、開発や破壊から守るための国際的な枠組みの必要性を強く認識させることとなりました。この機運が高まる中で、1972年11月16日、パリのユネスコ本部で開催された第17回ユネスコ総会において、「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」、いわゆる世界遺産条約が、参加国の満場一致で採択されました。

この条約は1975年に20ヶ国が批准したことで正式に発効し、今日に至る世界遺産制度の基礎を築きました。ヌビア遺跡群自身も、その歴史的・文化的価値と、国際協力による保護活動の成果が認められ、1979年に文化遺産として世界遺産リストに登録されました。

主な構成資産と移築工事

ヌビア遺跡群には、壮大な神殿や古代の遺構が多数含まれています。その中でも特に著名なものには以下があります。

アブ・シンベル神殿：ラムセス2世によって造営された大小二つの岩窟神殿。水没を避けるため、1964年から1968年にかけて、元の場所から約60メートル高い丘の上へ正確に分割され、再構築されました。
フィラエ神殿（イシス神殿）：ナイル川のフィラエ島にあったイシス女神を祀る神殿。アスワン・ハイ・ダムの影響で水位が上昇したため、1972年から1980年にかけて、隣接するアギルキア島へと移築されました。
カラブシャ神殿：ローマ皇帝アウグストゥスによって建設された神殿。もともとアスワンの南約50キロメートルのナイル川西岸にありましたが、1970年にアスワン・ハイ・ダム近くの現在の位置に移築されました。

他にも、アブ・シンベル小神殿、未完成のオベリスク、エレファンティネ島、アマダ神殿、エル・デール神殿など、様々な時代の遺構が含まれています。これらの大規模な移築工事は、当時の土木・建築技術の粋を集めたものであり、人類の文化遺産を守ろうとする強い意志を示す事業でした。

古代からのメッセージ

ヌビア遺跡群の一角からは、集団墓所が発見されており、そこからは大人と子供合わせて59体の遺骨が見つかっています。これらの遺骨の一部には、強く打ち付けられた痕や、骨に突き刺さったままの矢じりが見られるものがあります。これらの遺骨は紀元前12000年から紀元前4500年頃のものと推定されており、この発見は、先史時代のヌビアにおける人々の生活が、単に厳しい自然環境との闘いだけでなく、集団間での争いや衝突といった人間同士の戦いも伴っていたことを示唆しています。古代文明の栄華だけでなく、遥か太古の人類の営みや社会構造の一端を垣間見ることができる点も、この遺跡群の重要な側面です。

世界遺産登録基準

「アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡群」は、以下の世界遺産登録基準を満たすものとして登録されています。

(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの。

この遺跡群は、古代エジプトの偉大な創造性と技術を示すだけでなく、滅亡したヌビア文明の貴重な証拠であり、さらに水没危機からの救済という歴史的な出来事、そしてそれが世界遺産条約誕生という普遍的な意義を持つ出来事と密接に関連していることから、その価値が認められています。

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