ハヤブサを持つ男の肖像

ハヤブサを持つ男の肖像：ティツィアーノが描くヴェネツィアの野心

イタリア・ルネサンスの巨匠、ティツィアーノ・ヴェチェッリオが1525年から1540年頃に制作した油彩画『ハヤブサを持つ男の肖像』は、一見すると、黒い衣装を纏った青年がハヤブサを携えているだけのシンプルな肖像画に見えます。しかし、その背後には、モデルの身分、そして当時のヴェネツィア社会における野心が複雑に絡み合っています。

肖像画の詳細

絵画は、濃い茶色の背景を前に、半身像の青年が描かれています。青年は、黒い衣装を身につけ、左手に手袋をはめ、鎖で繋がれたハヤブサを止まらせています。彼は、ハヤブサの頭部が自分の目線の高さに来るように左手を持ち上げ、その頭部をやや後ろに引きながら見つめています。右手はハヤブサの胸を優しく撫でています。さらに、画面の左下隅には、ポインター種の猟犬が主人の姿を見つめる様子が描かれています。

黒髪で豊かな髭を蓄えた青年は、シンプルながらも上品な服装をしており、右手首には金のブレスレットが輝いています。その柔和な表情は知性を感じさせ、穏やかな人柄がうかがえます。当時、鷹狩りはヨーロッパの貴族や宮廷で人気のあるスポーツであり、ハヤブサは男性の地位の高さと、ヴェネツィアでの出世願望を象徴していました。また、訓練が難しいハヤブサは、捉えどころのない目標を追求する象徴でもありました。

ニュートラルグレーの背景は、人物の周囲を明るくし、黒い衣装をより一層際立たせます。犬の頭のすぐ上には画家の署名が記されています。これらの要素が組み合わさることで、肖像画は単なる記録を超え、当時の社会と人々の願望を映し出す鏡となっています。

モデルをめぐる謎

この肖像画のモデルは長らく不明でしたが、かつては、キャンバスを張り替えた際に失われた碑文によって、キプロス女王カテリーナ・コルナーロの弟、ジョルジョ・コルナーロであるとされていました。しかし、絵が描かれた時期を考慮すると、この説には矛盾があり、別の人物ではないかという議論が起こりました。候補として、ティツィアーノのパトロンの一人であるマントヴァ公爵フェデリコ2世・ゴンザーガの名前も挙がりましたが、こちらも有力な説とはなりませんでした。

近年、美術史家ダグラス・ルイスは、モデルはカテリーナ女王の曾甥にあたる小ジョルジョ・コルナーロ（1517年 - 1571年）であると提唱しました。彼はクレタ島生まれで、1535年にヴェネツィアに移住し、著名な建築家アンドレア・パッラーディオが設計したヴィラ・コルナーロを建設した人物です。この説は、絵画の制作年代とも一致することから、現在有力な説として支持されています。

制作年代と背景

肖像画の制作年代については、ジョスリン美術館は1520年代後半としていますが、美術史家ゲオルク・グロナウは1530年から1540年頃の中期作品と位置づけています。現在最も有力とされているのが、1537年説です。この年、20歳になった小ジョルジョ・コルナーロはヴェネツィア共和国大評議会に選出されました。この選出を祝うために、肖像画が発注されたという説は非常に説得力があります。

修復の重要性

この肖像画は、1900年代初頭にアメリカに渡るまでに、「嘆かわしいほど損傷」していました。そのため、ヴェネツィア派の研究者の中には複製と考える者もいたほどです。2008年、J・ポール・ゲッティ美術館の保存修復家マーク・レナードによって大規模な修復が行われました。この修復によって、絵具の剥落や変色、キャンバスの劣化、変色したワニスなどが取り除かれ、ティツィアーノの卓越した色彩感覚や明暗表現、そしてモデルの個性が再び明らかになりました。損傷の多くは過去の修復作業によるもので、過度な溶剤の使用や荒い洗浄が、オリジナルの絵画層を傷つけていたことも判明しました。修復によって、ティツィアーノの芸術性が蘇り、絵画の価値が再び高められたのです。

来歴と現在

肖像画の来歴は1593年、コルナーロ家の目録に記載されていることから遡ることができます。その後、1743年にはパリで売却され、19世紀のほとんどの間は、イギリスのカーライル伯爵家のコレクションに収蔵されていました。その後、数人の美術収集家を経て、1942年にジョスリン美術館に購入され、現在に至ります。この肖像画は、その複雑な歴史と、数々の謎、そして修復を通して蘇った芸術的な美しさにより、人々を魅了し続けています。

この絵画は、ティツィアーノの卓越した技量、そしてルネサンス期のヴェネツィア社会の複雑な様相を私たちに伝えてくれる貴重な遺産といえるでしょう。

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