ハンキー・ドリー

デヴィッド・ボウイのキャリアにおいて、その後の多様な音楽性の萌芽が明確に現れた重要作、それが1971年12月17日にRCAレコードからリリースされた通算4枚目のアルバム『ハンキー・ドリー』（原題：Hunky Dory）です。この作品は、ボウイがグラムロックのスターダムへと駆け上がる直前の、才能が瑞々しく開花した瞬間を捉えています。

アルバムタイトル「ハンキー・ドリー」とは、英語のスラングで「すべて順調」「ごきげん！」といった肯定的な意味合いを持ちます。この言葉の語源には、日本語の「花見通り」に由来するというユニークな説も存在し、ボブ・グレイスという人物がサリー州のパブ経営者ピーター・シュートの口癖から採ったと語られています。

本作は、ボウイの代表作の一つとなる『ジギー・スターダスト』と同時期に制作が進められました。そのためか、『ジギー・スターダスト』が作り込まれたコンセプトアルバムであるのに対し、『ハンキー・ドリー』はよりパーソナルで、ソングライターとしてのボウイの瑞々しい才能が際立っています。

収録曲には、後のボウイの活動を予見させるような楽曲が多く含まれています。アルバムの冒頭を飾る「チェンジス」は、その名の通り、絶えず変貌を遂げていく自身のアーティストとしての姿勢を歌った象徴的なナンバーです。また、長男ダンカン・ジョーンズの誕生への喜びがストレートに表現された「ユー・プリティ・シングス」、そしてフランク・シナトラの有名なヒット曲「マイ・ウェイ」と全く同じコード進行を用いながら、マスメディアや名声について皮肉たっぷりに歌い上げた「火星の生活」など、ポップでキャッチーな楽曲が並びます。

一方で、このアルバムの魅力は、明るい曲調だけにとどまりません。内省的でメランコリックな一面も深く掘り下げられています。自身の無力感や迷いを吐露した「流砂」、精神疾患を患い療養施設に入っていた実兄テリーへの思いを綴った感動的な「ザ・ビューレイ・ブラザース」など、人間の内面の弱さや狂気、悲しみといった感情を描いた楽曲も収録されており、アルバム全体の奥行きを深めています。

本作には、後にボウイのバックバンド「スパイダーズ・フロム・マーズ」の中核となるギタリストのミック・ロンソン、ベーシストのトレバー・ボルダー、ドラマーのミック・ウッドマンジーが参加しています。さらに、後にプログレッシヴ・ロック界で名を馳せることになるキーボーディスト、リック・ウェイクマンがピアノで彩りを加えており、彼らの卓越した演奏力がボウイの楽曲世界を一層豊かにしています。

『ハンキー・ドリー』は、そのリリース以降、音楽批評家やファンから高い評価を受け続けています。『ローリング・ストーン』誌が選出した「歴代最高のアルバム500選」では88位にランクインするなど、不朽の名盤としての地位を確立しています。また、イギリスの音楽誌NMEは、本作から「チェンジス」「火星の生活」「ユー・プリティー・シングス」といった7曲を、デヴィッド・ボウイの究極の名曲リストに選出しており、収録曲の質の高さを証明しています。

2022年には、本作の制作に至るまでの過程を掘り下げた豪華ボックスセット『ディヴァイン・シンメトリー』が発売されました。これには、当時の貴重なホーム・デモ音源やスタジオ・セッションの録音などが多数収録されており、ファンにとっては『ハンキー・ドリー』という作品がどのように形作られていったのかを知る上で貴重な資料となっています。

『ハンキー・ドリー』は、デヴィッド・ボウイというアーティストが、その並外れた才能と多様な音楽性を確固たるものにした記念碑的な作品です。ポップセンスと実験精神、そして深い人間洞察が融合したこのアルバムは、発表から半世紀以上が経過した現在も、多くのリスナーに新鮮な驚きと感動を与え続けています。

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