ブラッドフォード・サッカー場火災
1985年5月11日、イングランド北部に位置するウェスト・ヨークシャー州ブラッドフォード市で、サッカーの歴史に残る悲劇が発生しました。ブラッドフォード・シティAFCの本拠地であるヴァリー・パレード・スタジアムで、フットボールリーグ3部の最終節、リンカーン・シティFC戦が行われていた最中に大規模な火災が発生。この事故により、56人もの尊い命が失われ、265人以上が負傷しました。
背景にある構造的問題
当時のイギリスでは、スポーツ競技場の安全基準を定めた「スポーツ競技場安全法」が存在しましたが、これは主に1部と2部のリーグに所属するクラブのスタジアムに限定されており、3部所属だったブラッドフォード・シティが使用するヴァリー・パレードはこの法律の適用対象外でした。建設から76年が経過していたスタジアムは老朽化が著しく、消防当局からは防火対策上の問題点が繰り返し指摘されていました。
皮肉にも、ブラッドフォード・シティはこの1984-85シーズンに3部リーグでの優勝を決め、翌シーズンからの2部昇格が決定していました。これにより、来シーズンからはヴァリー・パレードも安全法の適用を受けることになり、最終節終了後に大規模な改修工事が予定されていた矢先の出来事でした。
祝賀ムードから一転した惨事
昇格決定に湧くスタジアムには、1万人を超える観客が詰めかけ、試合開始前には優勝トロフィー授与式が行われるなど、祝賀ムードに包まれていました。しかし、その和やかな雰囲気は突如として破られます。
試合開始から約40分、前半終了間際の午後3時40分頃、メインスタンドの一角（ピッチから見て右手側のGブロック）の床下から火の手が上がりました。初期段階の火災は小規模に見え、これに気づいた一部の観客は警官の誘導で避難を始めましたが、火災に気づかない観客や、試合が続行されていたことから事態を軽く見る者も少なくありませんでした。
しかし、出火からわずか数分後、スタンド床下から燃え上がった炎はメインスタンド全体を覆う木造の屋根に達すると、状況は一変します。コールタール状の塗料が塗布されていた屋根は瞬く間に燃え上がり、炎は屋根伝いに凄まじい速度で横方向に広がりました。わずか4分足らずで、3千人収容のメインスタンド全体が炎に包まれるという恐るべきスピードでした。
被害拡大の要因
炎上を目の当たりにした観客たちは一斉にピッチへの避難を開始しましたが、火の回りが異常に早く、出火地点から離れた場所にいた人々は逃げ遅れました。炎上する屋根から降り注ぐ強烈な熱気流は、逃げる人々の衣服や髪に次々と燃え移り、多くの犠牲者を出しました。また、スタンドの出口には回転式扉が設置されており、これが一部の観客の避難を妨げたとされています。
被害がこれほど拡大した背景には、いくつかの要因が指摘されています。一つは初期消火が全く行われなかったことです。スタジアム内には消火器が設置されていましたが、運営側が観客による悪戯を懸念し、事務所に保管していたため、火災発生直後の貴重な時間帯に誰も消火活動を行うことができませんでした。
さらに、木造のスタンドと屋根の構造と材質が、炎上速度を異常に高めました。山型の屋根と、壁や垂れ壁によって囲まれた構造は、火災で発生した熱気流が上方向へ抜けにくく、屋根伝いに横方向へと高速で流れる「熱気流伝播」を引き起こしました。特に、屋根表面に塗られていたコールタール状の塗料は熱せられると可燃性ガスを発生させ、これが熱気流に乗って移動しながら爆発的に燃え広がり、その輻射熱でスタンド下部の座席や床、手すりに次々と引火するという悪循環を生みました。
犠牲者と社会の反応
この悲劇的な事故の犠牲者には、多くの子供や高齢者が含まれていました。当時86歳だった元ブラッドフォード・シティ会長のサミュエル・ファース氏も火傷がもとで亡くなっています。また、ブラッドフォード・シティの選手だったドナルド・グッドマン氏は、この試合に招待したガールフレンドとその友人全員を火災で失いました。多くの負傷者が火傷の後遺症に苦しむ一方で、現場に居合わせた警官や勇敢な22人の観客による懸命な救出活動が、さらなる犠牲者の増加を防いだとも言われています。
出火原因については様々な憶測が飛び交いましたが、ウェスト・ヨークシャー警察は事故から4日後の5月15日、現場近くにいた観客の証言に基づき、観客の煙草の不始末が原因であると発表しました。
この悲報に、イギリスのマーガレット・サッチャー首相やエリザベス女王、さらに遠くローマのヨハネ・パウロ2世も犠牲者とその遺族へ弔意とお見舞いのメッセージを送りました。イングランドサッカー協会（FA）は、FAカップ決勝戦前に事故犠牲者への黙祷を捧げ、出場選手全員が喪章をつけてプレイすることを決定するなど、サッカー界全体が深い悲しみに包まれました。
事故からの教訓と変化
事故を受けて、政府は高等法院判事オリヴァー・ポップルウェル氏を委員長とする事故調査委員会を設置しました。ポップルウェル委員会の報告書は、当時の安全法が適用される範囲が狭すぎることを厳しく指摘し、収容人数500人以上の全ての屋内・屋外競技施設に防火対策法の適用を拡大すべきだと提言しました。これを受けて、1987年には「スポーツ競技施設の防火および安全法」が新たに制定され、特に木造スタジアムの新規建設が禁止されるなど、英国のスポーツ施設における安全基準は抜本的に見直されました。スタジアム運営の安全に関するガイドラインである「グリーンガイド」も改訂されました。
被災者支援のための募金活動も事故後すぐに開始され、多くの人々が支援の手を差し伸べました。特に、ミュージシャンたちはチャリティグループ「ザ・クラウド」を結成し、アンセムとしても知られる「ユール・ネヴァー・ウォーク・アローン」を再録音して売上を寄付するなど、様々な活動が行われました。こうした慈善活動によって集められた募金は、最終的に350万から400万ポンドにも上りました。
ヴァリー・パレード・スタジアムは火災でメインスタンドを焼失した後、ブラッドフォード・シティは他のスタジアムを一時的に間借りすることになりました。しかし、多くのサポーターは愛着あるヴァリー・パレードへの復帰を強く望みました。事故から約1年後の1986年6月、総工費260万ポンドをかけたスタジアムの再開発計画が開始され、約6ヶ月の工事を経て、従来の立ち見席から着席式の近代的なスタンドへと生まれ変わりました。再建を記念して、ブラッドフォード・シティはイングランド代表との親善試合を行い、歴史的な勝利を収めました。
この事故は、ブラッドフォード大学にも大きな影響を与えました。大学には形成外科と研究グループが設立され、火傷治療を含む皮膚科学の研究が飛躍的に進展しました。最先端の研究施設と豊富な臨床データを基に、世界的に著名な形成外科医が輩出されています。事故から25年後の2010年には、英国最大の皮膚科学研究機関としてブラッドフォード・サッカー場火災記念研究センターが設立され、皮膚に関する幅広い分野の研究が続けられています。
ブラッドフォード・サッカー場火災は、安全基準の不備が招いた悲劇として記憶されていますが、同時にそこから生まれた多くの支援、法改正による安全対策の強化、そして医学研究の発展といった、ポジティブな変化ももたらした事故と言えるでしょう。この事故の教訓は、現在もなお、世界中のスポーツ施設の安全管理に活かされています。
背景にある構造的問題
当時のイギリスでは、スポーツ競技場の安全基準を定めた「スポーツ競技場安全法」が存在しましたが、これは主に1部と2部のリーグに所属するクラブのスタジアムに限定されており、3部所属だったブラッドフォード・シティが使用するヴァリー・パレードはこの法律の適用対象外でした。建設から76年が経過していたスタジアムは老朽化が著しく、消防当局からは防火対策上の問題点が繰り返し指摘されていました。
皮肉にも、ブラッドフォード・シティはこの1984-85シーズンに3部リーグでの優勝を決め、翌シーズンからの2部昇格が決定していました。これにより、来シーズンからはヴァリー・パレードも安全法の適用を受けることになり、最終節終了後に大規模な改修工事が予定されていた矢先の出来事でした。
祝賀ムードから一転した惨事
昇格決定に湧くスタジアムには、1万人を超える観客が詰めかけ、試合開始前には優勝トロフィー授与式が行われるなど、祝賀ムードに包まれていました。しかし、その和やかな雰囲気は突如として破られます。
試合開始から約40分、前半終了間際の午後3時40分頃、メインスタンドの一角（ピッチから見て右手側のGブロック）の床下から火の手が上がりました。初期段階の火災は小規模に見え、これに気づいた一部の観客は警官の誘導で避難を始めましたが、火災に気づかない観客や、試合が続行されていたことから事態を軽く見る者も少なくありませんでした。
しかし、出火からわずか数分後、スタンド床下から燃え上がった炎はメインスタンド全体を覆う木造の屋根に達すると、状況は一変します。コールタール状の塗料が塗布されていた屋根は瞬く間に燃え上がり、炎は屋根伝いに凄まじい速度で横方向に広がりました。わずか4分足らずで、3千人収容のメインスタンド全体が炎に包まれるという恐るべきスピードでした。
被害拡大の要因
炎上を目の当たりにした観客たちは一斉にピッチへの避難を開始しましたが、火の回りが異常に早く、出火地点から離れた場所にいた人々は逃げ遅れました。炎上する屋根から降り注ぐ強烈な熱気流は、逃げる人々の衣服や髪に次々と燃え移り、多くの犠牲者を出しました。また、スタンドの出口には回転式扉が設置されており、これが一部の観客の避難を妨げたとされています。
被害がこれほど拡大した背景には、いくつかの要因が指摘されています。一つは初期消火が全く行われなかったことです。スタジアム内には消火器が設置されていましたが、運営側が観客による悪戯を懸念し、事務所に保管していたため、火災発生直後の貴重な時間帯に誰も消火活動を行うことができませんでした。
さらに、木造のスタンドと屋根の構造と材質が、炎上速度を異常に高めました。山型の屋根と、壁や垂れ壁によって囲まれた構造は、火災で発生した熱気流が上方向へ抜けにくく、屋根伝いに横方向へと高速で流れる「熱気流伝播」を引き起こしました。特に、屋根表面に塗られていたコールタール状の塗料は熱せられると可燃性ガスを発生させ、これが熱気流に乗って移動しながら爆発的に燃え広がり、その輻射熱でスタンド下部の座席や床、手すりに次々と引火するという悪循環を生みました。
犠牲者と社会の反応
この悲劇的な事故の犠牲者には、多くの子供や高齢者が含まれていました。当時86歳だった元ブラッドフォード・シティ会長のサミュエル・ファース氏も火傷がもとで亡くなっています。また、ブラッドフォード・シティの選手だったドナルド・グッドマン氏は、この試合に招待したガールフレンドとその友人全員を火災で失いました。多くの負傷者が火傷の後遺症に苦しむ一方で、現場に居合わせた警官や勇敢な22人の観客による懸命な救出活動が、さらなる犠牲者の増加を防いだとも言われています。
出火原因については様々な憶測が飛び交いましたが、ウェスト・ヨークシャー警察は事故から4日後の5月15日、現場近くにいた観客の証言に基づき、観客の煙草の不始末が原因であると発表しました。
この悲報に、イギリスのマーガレット・サッチャー首相やエリザベス女王、さらに遠くローマのヨハネ・パウロ2世も犠牲者とその遺族へ弔意とお見舞いのメッセージを送りました。イングランドサッカー協会（FA）は、FAカップ決勝戦前に事故犠牲者への黙祷を捧げ、出場選手全員が喪章をつけてプレイすることを決定するなど、サッカー界全体が深い悲しみに包まれました。
事故からの教訓と変化
事故を受けて、政府は高等法院判事オリヴァー・ポップルウェル氏を委員長とする事故調査委員会を設置しました。ポップルウェル委員会の報告書は、当時の安全法が適用される範囲が狭すぎることを厳しく指摘し、収容人数500人以上の全ての屋内・屋外競技施設に防火対策法の適用を拡大すべきだと提言しました。これを受けて、1987年には「スポーツ競技施設の防火および安全法」が新たに制定され、特に木造スタジアムの新規建設が禁止されるなど、英国のスポーツ施設における安全基準は抜本的に見直されました。スタジアム運営の安全に関するガイドラインである「グリーンガイド」も改訂されました。
被災者支援のための募金活動も事故後すぐに開始され、多くの人々が支援の手を差し伸べました。特に、ミュージシャンたちはチャリティグループ「ザ・クラウド」を結成し、アンセムとしても知られる「ユール・ネヴァー・ウォーク・アローン」を再録音して売上を寄付するなど、様々な活動が行われました。こうした慈善活動によって集められた募金は、最終的に350万から400万ポンドにも上りました。
ヴァリー・パレード・スタジアムは火災でメインスタンドを焼失した後、ブラッドフォード・シティは他のスタジアムを一時的に間借りすることになりました。しかし、多くのサポーターは愛着あるヴァリー・パレードへの復帰を強く望みました。事故から約1年後の1986年6月、総工費260万ポンドをかけたスタジアムの再開発計画が開始され、約6ヶ月の工事を経て、従来の立ち見席から着席式の近代的なスタンドへと生まれ変わりました。再建を記念して、ブラッドフォード・シティはイングランド代表との親善試合を行い、歴史的な勝利を収めました。
この事故は、ブラッドフォード大学にも大きな影響を与えました。大学には形成外科と研究グループが設立され、火傷治療を含む皮膚科学の研究が飛躍的に進展しました。最先端の研究施設と豊富な臨床データを基に、世界的に著名な形成外科医が輩出されています。事故から25年後の2010年には、英国最大の皮膚科学研究機関としてブラッドフォード・サッカー場火災記念研究センターが設立され、皮膚に関する幅広い分野の研究が続けられています。
ブラッドフォード・サッカー場火災は、安全基準の不備が招いた悲劇として記憶されていますが、同時にそこから生まれた多くの支援、法改正による安全対策の強化、そして医学研究の発展といった、ポジティブな変化ももたらした事故と言えるでしょう。この事故の教訓は、現在もなお、世界中のスポーツ施設の安全管理に活かされています。
もう一度検索
【記事の利用について】
タイトルと記事文章は、記事のあるページにリンクを張っていただければ、無料で利用できます。
※画像は、利用できませんのでご注意ください。
【リンクついて】
リンクフリーです。